TDCC Laboratory
TDCC 研究室

   HOME

新潟県中頸城くびき郡の福田家の歴史寸描(伝承)

    頸城くびき 平野の 保倉ほくら 東岸に位置する福田家は、江戸時代まで大庄屋であり、多くの歴史的価値のある文書があったといわれますが、明治時代になって、本家の家屋や菩提ぼだい寺が火災にい、また、さらに、その後、雪解ゆきどけけ水等によって蔵の内部が水浸みずびたしになりました。
    このときの文書は膨大ぼうだいな量のおかゆのようなドロドロ状態なので、当時、敷地に接していた保倉川に家族総出で流しに行き、山本信雄の母(旧姓 福田美枝さん)が子供の頃手伝ったといいます。こうして、あらゆる文書が消失しました。このため、福田家の家系さえもさかのぼること 5、6代以前は全く分らなくなっています。唯一、伝承でのみ祖先について伝えられているに過ぎません。
    山本の母までは、かなり詳しく伝えられてきましたが、その母は今、脳梗塞のうこうそく後遺症こういしょうで重度5となり声も出ません。 母の本家は若い世代に交代して昔のことに執着しゅうちゃくがないかと思いますので、山本信雄が母から聞いた事を、ここにとどめておこうと思います。
    誤謬ごびゅうもあるかも知れませんが、ご存知の方が居りますれば、ご一報戴ければ幸いです。また、もし、ご覧の皆様にご迷惑をお掛けする内容がありますれば、ご遠慮えんりょなくお知らせ下さいませ。直ちに、おびして、削除いたします。


1.   頚城平野干拓のこと

   (クリックすると
      拡大でご覧なれます)

㈱ 頸城建工 初代社長の
福田静治

(福田郡冶さん・シズイさん
ご夫妻のご長男)

と、奥様のとし子さん
伊勢神宮内宮の御正宮の前にて

(1994年3月)
山本美枝さんの夫・弘氏が撮影



福田静治氏のお母様の
福田シズイさん

山本美枝さんの姉でもある。



シズイさん・美枝さんご姉妹
の父 福田俊治さん




シズイさん・美枝さんご姉妹の
母 福田ツイさん



   (クリックすると
      拡大でご覧なれます)



山本美枝さんと夫(山本弘氏)
三重県湯の山温泉
御在所ロープウェイ入口にて

1995年12月31日(日)
この半月前に74センチの大雪あり
    今、新潟県西部位置する 上越市 の東側一帯に広がって米山よねやまに至る 頸城くびき平野(高田平野) は、新潟県、ひいては全国有数の穀倉地帯となっています。戦国時代では、湿地帯と荒地が広がる地域であったと想像されます。
    伝承では、上越市の南方の脇野田という地名に居住していた福田氏上杉謙信めいを受け、頸城平野の干拓事業を統率者として行い、居住も今の上越市 頸城市村いちむら (前:中頸城郡 頸城村 大字市村新田、旧:中頸城郡 大瀁おおぶけ 大字市村新田) という保倉川の河岸段丘に大庄屋として移転したようです。
    福田家の敷地は広大で、第一の分家を上越市頸城区大字百間町ひゃっけんまちの同じ敷地内に設けましたが、本家と分家の距離は2kmもあり、この区間全てが本家の敷地内といいます。本家と分家を結ぶこの道路も、本来、福田家専用の道路でしたが、近隣のお百姓さんたち(小作農)も自由に利用できるように計らったといいます。それで、何時いつしか、この道路を「旦那のおのう」と呼ばれて、親しまれていたといいます。今、この道路は直江津から頸城平野の奥に向かう重要な市道となっています。([註]今は、頸城鉄道の線路跡に、田圃たんぼの真ん中を直線で結ぶバイパスが出来ています)
    江戸時代は庄屋として繁栄をきわめたようで、お輿こし入れのときは、大名が使うような駕籠かごを用いたといいます。
   頚城平野における広大な農地を灌漑かんがいするための水源から各田圃たんぼへの水の供給について、その治水ちすい(ただし、どの程度の範囲かは不明)を福田家は昭和20年代(1940年代後半)の農地改革のときまで保持していました。
   なお、福田家は、1960年代の日本名家事典?のような事典に、わずか数行ですが、っていました。今は確かめていません。


2.   寺子屋

    江戸時代末期には、寺子屋を敷地内に設けて、近隣の小作農家の子供達を集めて教育をほどこしたそうです。明治時代になって学校が出来ると同時に寺子屋も終止符を打ちましたが、寺子屋で教育を受けた方たちが感謝の気持ちで石造りの記念碑を敷地内に建ててくださったとのこと。その後、屋敷内が大改装されているため、その碑がどうなっているか分かりません。


3.   明治維新による変遷

    明治時代になって、新しい制度と考え方により、小作人さんも未だ多少はいたようですが、福田家も単なる一農家として自立することになりました。広大な土地はただ同然で小作農家に分譲され、福田家も自立するに足るだけの農地しか残さなかったようです。当時の一般の農家と同様、福田家も経済的に豊かではなくなりました。


4.    瞽女ごぜさんのこと

    昔は、医療や公衆衛生が整わず、国民生活が貧しいために、トラホーマを初めとする目の病気が珍しくなく、失明する人も多くいました。
    瞽女さんとは、不幸にして幼いときに盲目になった女性が複数人三味線を携えて、目明きの案内人が先導となって、特に吹雪の中では互いに裾を手で持ち迷子にならないように、農村や山村を巡回して村民にいろいろな民謡や歌謡や物語りを三味線に載せての演芸を提供する遊行芸人です。演芸の後は、観客の人たちは幾ばしかの金銭をそれぞれ差し上げる、ということで、瞽女さん方は生計を立てています。
    かの福田家にも、毎回、定期的に瞽女さんたちがやって来ます。福田家では瞽女さんたちを大広間にお通しし、幼い頃の山本信雄の母・山本美枝(旧姓名 福田美枝)は、近隣の家々に、「瞽女さんが来たよー。瞽女さんが来たよー。」と知らせ回るのだそうです。すると、各家々から人々が集まって来て、演芸が始まります。物語は、聞くも涙、語るも涙、が中心で、演芸の終る頃は、皆、感涙かんるいむせびつつ、満足して三々五々各家に戻る、というわけです。福田家では、瞽女さんたちに無償でお食事や宿泊のお世話をするのだそうです。
    時代が変わり、日本最後の瞽女さん・ 杉本キクエさん (この演技が国の重要無形文化財に指定)が、1983年、85歳で、新潟県上越市高田で静かに息を引き取られ、テレビニュースでも報道されました。


5.   電灯が点る

    1925年頃、山本の母・美枝(旧姓・福田美枝)が小学生の頃、それまでランプ生活だったのが、ある日、電灯会社が工事して、電灯会社の人が電灯のスイッチを入れると、周りで見上げていた皆は思わず「ワアッ。」と声を上げたとか。


6.   リヤカーで行商

    当時の農家は、自分の家で採れたよいお米は出荷して、自分の家ではくず米を食べていました。小学生の母は朝食の前に田圃たんぼ仕事を手伝い、学校にはお弁当を持っていかないで昼食抜きの習慣のようでした。
    また、屋敷で採れる余った野菜は、美枝さんの母・福田ツイさん[下註](山の多い浦川原村真光寺[現在の上越市浦川原区真光寺]出身)がリヤカーに積んで中頚城郡直江津町(現在の上越市直江津)まで引いて歩いて行商をしていたといいます。

    [註] 本当は「マツイ」さんの筈が、田舎の役所が「マ」を聞き逃したため、「ツイ」さんと記載されてしまった由です。また、ひょっとして、本来は「マツエ」さんの筈であったのかも知れません。「エ」と「イ」の発音が不明瞭な田舎のことですから。なお、ツイさんは1877年(明治10年)8月生まれで、1947年(昭和22年)2月に亡くなっています。
    ついでに、美枝さんの祖母は、上越市大字飯田にある勝楽寺から福田家にお嫁に来られた旧姓・池永サカノさんだそうです。


7.   元NHK美人アナウンサーの 下重しもじゅう暁子あきこ さんのお母様のこと

    絶版になりましたが、下重暁子さんの著作である「思へばこの世は仮の宿」の初めのほうに、お母様の最初のご結婚のことが書かれています。お母様のご出身は、福田家から南方に位置する板倉町の庄屋さんと著書に書かれていて、下重暁子さんのお母様の最初の結婚相手は、何と、上述の百間町にある福田家の第一分家の長男なのです。著書にも書かれているとおり、結婚式が毎日延々と10日も続いたそうです。
    この頃、福田家の本家は貧乏しましたが、分家はまだ元気であったわけです。しかし、ご結婚間もなく、旦那が病気(結核?)で急に若死にされました。子供がいなかったことで、お母様はこの分家から出て、栃木県宇都宮市の軍人・下重氏と再婚され、下重暁子さんがお生まれになりました。
   歴史に「もし...ならば」と考えることは無意味なのですが、もし、分家の若旦那がお元気でいたなら、下重暁子さんはこの世に存在なさらなかったでしょう。そう思うと、人生、これ運命というものを感じます。
   2015年に出版なされた「 家族という病 」の各所にも、新潟県にあるお母様のご実家のことが書かれています。
    ちなみに、上記のことで福田家の第一分家に跡取りがなく、直系は途絶えたと聞いていますが、現在は一番近い親戚筋が継いでおられると思います。


8.   戦後の農地改革で頚城平野の治水ちすい権を新潟県庁に譲渡じょうとする

    上記 1 項で述べましたように、戦国時代の干拓事業以来、福田家が保持していた頚城平野の治水権を、1945年の終戦直後に行われた農地改革によって、新潟県庁に譲渡しました。この見返りとして福田家は県から巨大な南部鉄瓶を授かったそうです。今、この鉄瓶はどうなっているかは山本信雄は知りません。


9.    頸城鉄道くびきてつどう同左1同左2同左3同左4同左5同左6同左7同左8先頭同左2はインターネット・アーカイブのバックアップ[backup at the Internet Archive]より抽出)

    信越本線・直江津駅の東隣の黒井駅を降りて南側に隣接して、頸城鉄道の始発駅・ 新黒井しんくろい同左) がありました。軌間762mmゲージの玩具おもちゃのような線路が広大な田圃を南東方向に縦断する軽便鉄道で、 百間町ひゃっけんまち同左) を経て終点の 浦川原うらがわら同左) まで、頚城平野で唯一ゆいいつの交通機関でした。鉄道趣味の方々にはかなり有名な鉄道ですが同じ会社(現在、頚城自動車株式会社)の経営する頚城バスに受け継がれ、1971年に惜しまれながらも全線使命を終えました。
    信雄の両親が帰郷するときには新黒井駅で乗車して、広大な田圃の真ん中にある 北四ッ屋きたよつやその2 ) を降り、そこから市村福田家へ歩いて行きました。ドイツ・コッペル社製の、おとぎの国に出てくるようなユーモラスで可愛らしい蒸気機関車が、客車2両と貨車1両を牽引けんいんしていて、甲高かんだかいポーッという汽笛を鳴らして風情ふぜいがありました。
    北四ッ屋駅のホームはったの20-30センチの高さの盛り土で、線路も小学生の信雄がその両側を簡単にまたげる幅しかなくて、子供目にもおもちゃに見えました。その駅に側線が1本あって、ポイント(転てつ機)の切り替えは簡単な手動で、小学生の信雄が簡単に切り替えて楽しんだ程たわいのないものでした。勿論もちろん、直ぐに元に戻しましたが。
    客車には結構たくさんのお客さんが乗っていて、車掌さんが車内で切符を切っていました。カタカタ、カタカタと小気味よいけれど何か頼り気ない線路の継ぎ目の音が、本線(信越本線のこと)とはまるで違う田舎いなかそのものの雰囲気ふんいきを出していました。前後左右上下かなりの揺れをみせながら、それでも(時速40キロくらいで?)けな気に一所懸命に走っていました。
    頸城鉄道閉業後、その可愛い蒸気機関車は 西武鉄道・山口線その2 )で観光列車の牽引けんいん機関車として活躍かつやくし、その使命を終えた後、新潟県上越市頚城区百間町に里帰りして百間町駅あとの機関庫に温存されているそうです。
    母から聞いた話では、吹雪の日には時々列車が吹き溜まりに突っ込んで立ち往生をし、ポー、ポー、ポー、と甲高い汽笛が鳴るのを聞くと、村の男衆はシャベル片手に線路に向かい、機関車を掘り起こして救援するのだそうです。


10.    近所の人がタコ部屋から逃げ帰った

    1930年の世界大恐慌の影響で、日本社会もどん底の生活を強いられました。母・美枝(旧姓・福田美枝)が若い頃に聞いた近所の人の話をしてくれました。次のようです。
    近所のある人が仕事を探しに東京に出たきり行方不明になりました。何年か後に、ひょっこり村に帰って来ました。その人が語る話が当時の日本の恐ろしさを伝えています。それはこうです。
    東京で仕事を探していると、ある仕事斡旋あっせん人が「良い仕事がある。付いてきなさい。」と言われて付いて行った先が、群馬県の足尾銅山でした。ところが、そこでは、ろくに食べ物も十分に与えられないで、朝から晩まで毎日休みなしで奴隷どれいのように働かされ続けたそうです。それをタコ部屋といい、日本全国、多くの企業にあったそうです。村に帰ろうにも、監視付きで、逃げようとすると銃で射殺されるというのです。当時はそれが野放し状態で、射殺されても事件にはなりませんでした。それで、何とか、スキをついてその会社から脱走でき、やぶの中、山をぐんぐん登って日光に逃げ延びて村に帰ることが出来たそうです。
    日本人同志でも、だまして奴隷のような強制労働をさせていた時代です。いわんや、朝鮮人、中国人への待遇は日の目を見るまでもなく惨憺さんたんたるものであったことが想像できます。1945年の敗戦と同時に、政府命令で不利な文書類は公私とも全て焼き払ったので、それら日本の後ろめたい負の情報と証拠はほとんど残されていない。

    2010年代に、長崎の軍艦島が世界遺産なりましたが、韓国は「そこで強制労働で悲惨な目に会っている朝鮮人の痕跡こんせきとなる資料を提示していない。」と言って世界遺産の撤回を主張しています。それと、慰安婦いあんふ問題など、日本にとっては、どうしようもない負の遺産になっています。日本は何をやってきたか、想像以上にひどいことをしてきたようです。しかし、日本は、それらに対する謝罪は表面だけで、いつも水に流そうとしています。なにしろ、証拠となる文書類は終戦時に全て焼き払われているからです。

    北海道の石北線の石北トンネルのコンクリート壁に朝鮮人が埋め込まれているのをご存じの方も多いと思います。テレビでも放映されたことがあるからです。要するに、難工事だった石北トンネル工事の安全祈願にと生贄いけにえとして朝鮮人を生きたままコンクリートに埋め込んだというのです。2020年の今でも未だ埋まったままでしょうか。いや、かなり以前にトンネル改修工事をして、その遺体(骸骨がいこつ)を取り出したようなニュースがあったような記憶もあります。記憶があいまいで定かではありません。他のトンネル等にも同様のケースがあったかもしれません。
    この石北トンネル、私自身、中学校3年秋の修学旅行(阿寒国立公園)で1960年に通過しています。その時はこのことを全く知りませんでした。


11.    現在の福田家

    山本信雄の母の姉・福田シズイさん(故人)[下註]が戦前に近所からお婿さん・福田郡治さん(故人)を貰い、ご長男の方・福田静治さん(故人)が新潟県庁に奉職の後、 ㈱ 頸城建工 を創設され、静治さんのご長男・福田孝則氏が会社を継がれています。㈱ 頸城建工は頚城地方では中堅の建設企業として地元産業に貢献しています。

    [註] 本当は「シズエ」さんの筈が、「エ」と「イ」の発音が不明瞭な田舎の役所の手続きミスで、「シズイ」さんと記載されてしまった由です。

    以上は、山本信雄の母・山本美枝が、日頃話していた内容を山本信雄がまとめたものです。もし、誤りがありますれば、お知らせください。


[参考] 伝承を語った山本美枝さんの略歴

(クリックで拡大します)

24歳頃の美枝さん   
1940年頃 ?

1916年(大正5年)1月6日 新潟県中頸城くびき大瀁おおぶけ(現在の上越市頚城区)大字市村新田1086の1にて福田俊治の3女・福田美枝として生まれる。
1928年 大瀁村立 南川小学校 卒業
1930年 大瀁高等小学校を主席で卒業。このときの優等賞として立派な「くけ台と和裁用の仕立て台」を貰い、一生涯いっしょうがい使い続けた。(なお、福田美枝は、どうしても女学校に行きたがっていましたが、実家の経済的事情から泣く泣く断念しました。このことを生涯やんでしました。)
1930年~1941年
(その1)東京市京橋区と東京市麹町こうじまち区のそれぞれの叔母おばさんが経営する旅館業にご奉公ほうこうし、農繁期には、新潟の実家の農業を手伝う。
(その2)山名やまな男爵だんしゃく家にご奉公。(山名家は、 応仁の乱山名宗全 の直系。)
(その3)投資家として財を成した関原家にご奉仕し、「お竹さん」と呼ばれて大切にされる。なお、関原さんのお嬢さん「 関原和子 (第18回[1949年]日本音楽コンクール・ピアノ部門入選)」は ピアニスト として演奏活動をなされてこられた。ご子息様は、元・日本航空ニューヨーク支店長。
1941年6月26日 新潟県中頚城郡保倉村[現在の、上越市]駒林出身の山本弘と結婚。山本弘が日本石油㈱関西製油所に勤務する関係で、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)西字南開にしあざみなみびらき711の日本石油㈱工員住宅に居住。
(クリックで拡大します)

美枝さんと長男・信雄
1942年 26歳
1942年8月24日 長男(信雄)出産
1945年 日本石油㈱関西製油所が空襲くうしゅうい、壊滅かいめつ、閉鎖。8月15日 太平洋戦争終戦(敗戦)
1945年 夫が日本石油㈱大阪営業所に転勤になり、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)西字本田にしあざほんでん31の日本石油㈱本田ほんでん社宅に引っ越す。
1946年7月29日 長女(和子)出産
1953年 夫が仙台営業所に転勤になり、仙台市半子町はんこまち1の4の日石社宅に引っ越す。
1955年 夫が小樽営業所に転勤になり、北海道札幌郡手稲町(現在の札幌市手稲区)字手稲144の日石社宅に引っ越す。当地は未だ井戸水生活。
1957年 小樽営業所が札幌支店として統括され、札幌市南25条西9丁目1118 日石藻岩アパート(新築)に引っ越す。
1963年 夫が広島支店に転勤になり、広島市牛田町早稲田区の日石借り社宅に引っ越す。
1968年 夫が大阪支店に転勤になり、兵庫県尼崎市西字本田34の日石本田社宅に引っ越す。
1971年 夫が日本石油㈱を定年退職し、大阪府高槻市東五百住よずみ町の自宅(新築)に引っ越す。夫は新潟工事㈱大阪出張所長となる。
1986年 夫が新潟工事㈱を退職し、老後の隠居地である三重県志摩郡[現在の、志摩市]阿児町神明しんめいの自宅(新築)に居住。
1997年12月17日16時43分 夫が肺炎により眠るように死去。
2002年12月 山本美枝は脳梗塞で倒れる。三重県立志摩病院に入院。重度5。
2003年4月 南勢町立病院に転院。
2003年8月  豊和病院 に転院。以降、ここで長期療養。
2008年8月から2009年3月 県立志摩病院で肺炎、腸閉塞、敗血症の治療。完治して、豊和病院に戻る。
2011年1月30日10時23分 老衰のため死去。95歳。浄土真宗大谷派 法名釋尼妙美。安らかな寝顔で、寝ている間の自然死と思われます。長い間ご苦労様です。お疲れ様でした。どうも有り難うございました。ご冥福をお祈りい申し上げます。家族葬の後、生前の高い意志により、三重大学医学部に医学生の実習のお役に立てるため、献体されました。

[謝辞] 豊和病院の 磯島明徳先生 (三重県立医科大学[現 三重大学医学部]のご出身で伊勢市の山田赤十字病院を長年お勤めなさっていました)には、山本美枝の診療と看護指導および介護指導等、ご親切、ご丁寧にして戴くなど、いつも大変お世話になっています。ここに、感謝し、御礼申し上げます。
   また、三重県立志摩病院の内科に2008年当時居られた 伊藤宏雄先生 にも美枝の診療に大変お世話になりました。御礼申し上げます。
   さらに、三重県立志摩病院の外科の 根本明喜先生 (三重大学医学部のご出身で、私たちスタッフと同じ茨城県ご出身でもあり、高校は龍ヶ崎高校とのことです)には2008年の美枝の十二指腸の手術に大変お世話になりました。御礼申し上げます。

(クリックすると拡大でご覧なれます)
まつり博で夫・弘氏と、78歳
1994年8月三重県伊勢市
憧れの鳥取砂丘にて、85歳
2001年8月13日(月)夕方

(クリックすると拡大でご覧なれます)
三重県志摩のパールロードにて
2001年8月17日(金)
同左


2003年12月 87歳
 長男とともに
余談

    新潟県上越地方、長野県、山梨県、静岡県は昔から比較的標準語に近い言葉を使っています。ただ、新潟県では、例えば、「~に行ったすけ、~に会うことができた。(~に行ったので)、または、(~に行ったけれども)の意」、とか、「おまんた、どこへ行く。お前達)の意」のように特有の表現があります。
   天下の険の一つとして有名な親不知おやしらず海岸を西に越えて富山県に入ると、「これ何ぼや?いくら?)の意」、とか「そうや。そうだ。)の意」のように西日本なまりが混じります。また、新潟県下越地方では、「~だべ。(~でしょう。)の意」のように東北日本訛りが混じります 。
    山本美枝さんは新潟県上越の出身で、さらに、東京に奉公に出ていたため、しゃべる言葉はほとんど完全な標準語でした。しかし、息子の信雄が子供の頃、今では死語となった特有の表現が思い出されます。
(1)「あキシャ!」。これは、息子が何かおかしなことを仕出かしたときに発していました。多分、昔、新潟の田舎に軽便鉄道が通って、感動と驚きで汽車を見ていたのを、何かに驚いたときにも「あ、汽車だ!」という意味の言葉が自然に出たものと思われます。それとも、「あ、棄捨」の意か??
(2)「ハマって勉強しなさい。」。「一生懸命に勉強しなさい。」の意
(3)「よそうちでワサするんじゃありませんよ。」。”ワサ”は”悪さ”の意
(4)「ボケや。」。息子がポカをやったときに発していました。
(5)「(今の福田家に)もう昔の物はナーもない。」と嘆いていました。”ナーも”は”何も”の意
(6)「アダけるんじゃありません。」と、私がさわいでいるときに注意をします。これは、「あだを打つ」の「アダ」と思われ、多分、「子が騒いで、母親としての面子めんつつぶすんじゃない。」という意味のようです。


美枝さんの寸描

(クリックで拡大します)
美枝さんが製作した
静御前の人形

1954年頃の作品

    美枝さんの性格は温和、かつ、理性的で非常に頭がよい。なので、学歴に恵まれなかったのがお気の毒で残念です。おとなしく上品じょうひんで、口数が少ないけれども社会への順応性は優れています。気付かなければ、居るのか居ないのかが分からないくらい静かな方です。ただ、芯は強い。性格的に 紫式部 もかくありなむ、といった人です。美枝さんの歴史上の好きな人物は 静御前しずかごぜん で、美枝さんが若いときに和人形教室で製作した60センチの和人形が、この静御前を模して作られたようです。今も大きな人形ケースの中に飾ってあります。身長は140センチ、体重は37キロくらいの小柄な人で、ひところ言われた新潟美人そのものです。肌は白人並みに白く(雪肌ゆきはだ)、顔は細面ほそおもてで鼻は高く、二重まぶた。お化粧が嫌いで、お化粧けしょうをしたことがないそうです。それでも、若いときは周りから「お綺麗きれいですね。」という賛美と羨望せんぼうのお言葉を随分ずいぶん頂戴ちょうだいしています。[遠い祖先にトルコ系またはコーカサス系のような白色人種の系統が入っていて、先祖帰りによって、白人系の素質が多少出ているのかな、と思わせるような感じです。]
    好きな音楽は、ウィンナーワルツ等のワルツ、スコットランド民謡、行進曲、昔の学校唱歌、(浜千鳥、滝廉太郎たきれんたろう作曲の花、荒城の月、等)、童謡(鉄道唱歌、みかんの花咲く丘、月の砂漠、歌を忘れたカナリヤ、等)、ドボルザーク作曲の「新世界より」等の有名な交響曲、1940年代の歌謡曲。
    甘いものが好きで、あんこで作られた食物は特に好みます。一般に和食一辺倒で、洋食、洋菓子、中華料理は一切受け付けません。勿論もちろん、牛乳、バター、チーズ、肉類は全く食べません。これは、田舎いなか育ちの粗食そしょくれたためと思われます。そのため、骨粗しょう症で2回大腿骨だいたいこつを骨折し、また、低血圧のために、不幸にして脳梗塞に見舞われたものと考えられます。現在、右半身不随で、声も出ず、胃漏いろうを通しての流動食で栄養を摂っている、という可哀想かわいそうな状態です。[註]脳梗塞は低血圧の人、脳出血やクモ膜下出血は高血圧の人になりやすい由。それで、美枝さんが、牛乳を飲み、多少の洋食を食べていれば、とやまれます。
    料理、裁縫さいほう、家事一般、農作業はとても上手で、料理は、自分の嫌いなものでも、家族のために、また、独身時代には奉公先のために上手に作りました。また、旦那さん(山本弘)とともに家庭菜園を’せっせ’としていました。せっせと”は新潟弁の”一心不乱に”の意で”節々”、それとも”切々”、または”摂々”が語源か??)
    趣味は、若いときに、編み物教室や人形教室等を習っていた以外は特にありません。


美枝さんがよく口ずさんだ数え歌

    美枝さんは童謡や学校で習う唱歌や滝廉太郎などの歌曲を時々口ずさんでいましたが、次の数え歌をよく口ずさんでいました。これが印象に残っています。

    「一番初めは一宮いちのみや、二は日光東照宮、三は佐倉の惣五郎そうごろう、四は信濃の善光寺、五つは出雲いずも八重桜やえざくら、六つ村々むらむら鎮守様ちんじゅさまなーなつ名古屋の熱田宮あつたぐう、八つ八幡やはた八幡宮はちまんぐう、九つ紀州きしゅう高野山こうやさんとおは東京泉岳寺せんがくじ。」


美枝さんの死
(クリックで拡大します)
三重大学医学部に献体けんたいされた
2011年1月31日(月)撮影
三重大学医学部解剖体感謝式にて
田中真紀子文部科学大臣から
感謝状が授与された

2012年10月25日(木)

    美枝さんは上記のように三重県志摩市の豊和病院に入院していましたが、2011年1月30日(日)の午前10時23分にいつの間にか息を引き取っていたそうです。95歳。その少し前に介護かいご士さんがオムツを取り替えたときはいつものように元気だったと言うことです。それで、私(長男)は茨城県ひたちなか市をって、東名阪自動車道の御在所ございしょサービスエリヤで車中泊をしました。このとき1月31日朝に見た夢を次の日記で紹介します。普段は家族の夢を見ることはめったにありません。ちなみに、父(山本弘)は1997年12月に82歳で肺炎で永眠しています。30日にお通夜、翌2月1日に家族そうです。

    1月31日(月)曇後晴
    御在所サービスエリヤの車中泊で見た夢。**さんの家にいる。僕の左喉奥のどおくがいずいけれど、**さんと話をする。もう1人若い人がいた。家に帰ると、玄関や庭にお花がいっぱい咲いていて、母がむかえて下さる。家に入ると、よぼよぼの父がだれかに電話で「頑固がんこになってねえ。」などと話している。僕や母は、「父はもうだめだなあ。」と思う、という夢を見る。
    9時に起きる。伊勢インターチェンジに11時近くに来る。・・・・・



~ブラウザの「戻る」で 前頁 に戻ります~

~または、下のボタンを押して HOME に戻ります~


HOME

Updated: 2007.3.15, edited by N. Yamamoto.
Revised on Oct. 29, 2012, Nov. 11, 2012, Aug. 07, 2014, Mar. 02, 2015, Mar. 16, 2015, Feb. 10, 2016, Feb. 11, 2016, May 27, 2017, May 01, 2020, May 04, 2020, Sep. 06, 2020, Jan. 06, 2021, Jan. 10, 2021, Jan. 31, 2021, May 08, 2021, Jun. 08, 2021 and Mar. 27, 2022.