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不思議なこと(上)      山本信雄

飢えに苦しんだ戦中・戦後、そして、表面的に豊かな高度経済成長、そして、バブル崩壊という
激変の時代を、北海道から広島までの各地を22回も移動する人生に、時として不可思議なことに出食わします。
年を重ねるに連れて不可思議なことが理解できるのかと思いきや、不可解のままではシャクなので、
自分に不利益になることは覚悟の上で、今まで誰にも話さなかったことを書き連ねてみます。




不思議なこと(上)目次

不思議なこと(下)目次


1.   まえがき
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(美枝みえ)と私(1942年)
どんぐり目
肌の色も浅黒く
「南洋の土人
みたいだ。」と
母はなげいてい
ました。

(1942年)

    1942年(昭和17年)に、兵庫県武庫むこ大庄おおしょう大字おおあざ南開みなみびらき(現・尼崎あまがさき市)にある日本石油㈱関西製油所の工員住宅で縁側えんがわ廊下ろうかに、母が足を投げ出していたときに、宅地内にある火の見やぐらに落雷し、母の下半身に電撃でんげきが走ったそうです。このとき母は私を身ごもっていたのです。
   生まれてから1週間経った頃からすでかんが強すぎるというわけで、ご近所の方々のお勧めできゅうをすえられた特異の赤子時代でした。 わずかの物音でギャーと泣き始めたが最後、何時間も泣き止まず、両親は途方にれ、ご近所も困惑の毎日だったそうです。たまたま静かに寝ている赤子の私のかたわらを母が通るときは、起こさぬよう、それは大変な神経を使い、足音さえ立てずにそうっと歩かなければならなかったといいます。


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富高とみたか氏から
いただいた机で
書きもの

1946年頃
父のお客と自宅で新年会
カメラのシャッターが不調で
お客の首がちょん切れた

1946年頃
   ある日、母が「もう、こんな子はいらんわ。」と言って、縁先えんさきから庭に放り出したそうです。遊びに来ておられた同じ日石社宅に住む赤沢さんのおばさん(新潟県柏崎市ご出身)が「まあまあ、そんなことを言わずに。」と言って、拾い上げてくださったとのことです。後年、小学校のときに赤沢さんから「あなたは親不孝だったよ。これから親孝行しなさいよ。」と会うたびに言われました。
    また、3才まで戦争中で米も食料もなく、狭い庭のハコベやいものツルを食べ、サトウキビまで栽培して栄養を補っても、栄養失調になった母乳のカルシューム不足のため、私は重い乳児脚気かっけにかかっていました。「牛乳を飲ませないと死んでしまう。」と医者に言われて母は、必死の思いでそれを手に入れたようです。都市部の庶民は牛乳も卵も全く手に入らない時代です。おそらく、よそ行きの一張羅いっちょうらの着物を質屋に入れて換金したのでしょう。母の涙を今でも感じています。

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よそのおばさんと私
宝塚たからづか動物園にて

1947年3月初旬
従兄いとこの福田治義はるよしさん
と私
。宝塚動物園にて

1949年1月

   終戦直後に尼崎市西字本田にしあざほんでんの本田社宅に引っ越しましたが、床屋に行くときも大変で、バリカンで刈ってもらう間、火のつくように泣くので、連れて行く母親が戦々恐々でした。これを知った父の取引関係で懇意こんいにして下さっていた富高とみたかさんが、わざわざ幼児の私のために、手動のバリカンをプレゼントして下さったのですが、母は不器用で、父は仕事が多忙につき、ほとんど使わなかったようです。また、私が絵を描くのが好きなのを見て、私専用の小さな机を作って下さいました。
   私の左耳が超敏感で、バリカンの音が耳を刺激するだけでなく、左わき腹が非常にくすぐったくなって呼吸が出来なくなるほどの苦痛に際悩さいなやまされるからです。この理由を両親は知らないままで終わっています。20歳代まで左耳のこの現象が残り、バリカンが左耳を通過する毎に呼吸を整えながら、左わき腹の苦痛に耐えるのです。多分、野生動物的本能が左耳に残っているのだと思います。

   やっと片言が話せるようになったのは幼稚園 [註1] に入ってからですが、小学校以降は並以上の子供になったようです。


[註1] 聖鐘せいしょう幼稚園、聖公幼稚園
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正月の私
日本石油本田社宅にて

1949年頃の正月

    1948年(昭和23年)に園長の笠井満男先生と奥様の武田昌子先生のご夫妻によって神戸市東なだ区森にある戦前に建てられていた森会館(現在の森会館はこちら)を借りて開園した私立 聖鐘幼稚園 に、私は第1期園児として通っていました。母が尼崎市内の幼稚園に応募しようとしたところ、どこも定員満員でした。たまたま、阪神電鉄武庫川駅の脇の武庫川を渡る歩道橋で出合ったご婦人に「この辺に幼稚園はないでしょうか。」とたずねたところ、そのご婦人が武田先生で、「神戸に私達が幼稚園を開園する予定なので、ご一緒に通いませんか。」と言って下さったのが切っ掛けでした。それで、毎日、もう1人の可愛い園児・高柳富貴子ちゃんと一緒に、両先生の引率で下り阪神電車の武庫川駅から西宮東口まで乗りました。そこで、園長の笠井先生が市役所に出勤され、あとの私達は 国道電車 (その2) (当時、国道2号線[阪神新国道] の中央に阪神電鉄経営の路面電車がありました) に乗り換えて、「森市場もりいちば前」という停留所で下りました。そこから北に歩いてまもなく、国鉄・東海道本線の踏み切りと出合う所にある聖鐘幼稚園に通いました。そういう関係で、私は先生方から可愛がられ、私が小学生になってからも、お子様がいなかった先生方に、六甲山上ピクニック、箕面みのおの滝の炊飯すいはんピクニック、仁川にがわピクニックセンターの炊飯ピクニックなど、行楽に連れて行って下さいました。どうも有り難うございました。御礼申し上げます。その10年後、聖鐘幼稚園に代えて、先生方は近くの東灘区中野に 聖公幼稚園 を発展的に開園なされたと、お手紙でうかがっています。その後、まことに残念ではありますが、武田昌子先生がご逝去なされていました。笠井満男先生は現在(2005年頃)もなお、100歳のご高齢で神戸市須磨区で健在と伺っています。さらにご長寿であられますよう、お祈り申し上げます。
    なお、聖公幼稚園は1980年頃(?)に閉園しています。(園長先生のご高齢と少子化の理由が考えられますが、確かめていません)。
   また、幼稚園のあった2ヶ所の近辺きんぺんは、1995年1月の阪神淡路あわじ大震災によって一部の建物を除き、壊滅かいめつ的な打撃だげきを受けていました。さらに、上記の仁川ピクニックセンターも、近くの新興団地が一瞬いっしゅん山津波やまつなみに飲まれて大惨事だいさんじになったと報道がなされました。現在は復興していると思います。

[補註1-1] 上記 六甲山上ピクニックについて
    このピクニックには、僕のほかに、一年上の上殿?かみどの君、同級だった? 神戸のポルトガル領事館? の上品でとてもきれいで笑顔の美しいお嬢さんも同行しました。六甲山ケーブルカーで六甲山上駅に着き、ここから山頂近辺をハイキングしました。特に鮮明に覚えているのが、いもり池にお腹の赤いイモリがたくさん泳いでいて、生まれて初めて見る間近のイモリでした。

[補註1-2] 上記 箕面の滝の炊飯ピクニックについて
    このときは、僕1人だけ連れて行ってくださいました。飯ごうでご飯を炊き、クジラ肉と野菜の缶詰をおかずにご馳走してくださいました。飯ごうご飯は生まれて初めてです。その後、箕面の滝を見学しました。滝を見たのも生まれて初めて。帰ってから母にその興奮を伝えました。

[補註1-3] 上記 仁川ピクニックセンターの飯ごうピクニックについて
    このときは僕1人だけを連れて行っていただきました。阪急宝塚線の仁川駅から仁川沿いを上流に歩いてピクニックセンターの河原に来て、飯ごう炊飯を作ってご馳走して頂きました。食べている最中に、上流の方からゴルフボールが飛んできて、私たちの目の前に転がって来ました。笠井先生がそのボールを直ぐにポケットに仕舞しまい、やがて、ゴルファーの男性がやって来て「ここにボールが飛んで来ませんでしたか ?」、といてきましたが、笠井先生は何食わぬ顔で「飛んで来ないよ」と。ゴルファーは直ぐに退散。僕は生まれて初めてゴルフボールを見、ゴルフというものを初めて知りました。飯ごう炊飯も箕面の滝に続いて2度目。
    なお、その後、飯ごう炊飯をしたのは、北海道立札幌南高校2年生のとき、クラス全員でグループごとに行った厚別あしりべつの滝での人生3度目の飯ごう炊飯でした。

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聖鐘幼稚園の運動会
1948年10月20日(水)
現在は神戸市森会館
聖鐘幼稚園のひな祭り(1949年3月)
右端が武田昌子先生。私は3列目の左
から5人目。前列中央のお洒落しゃれな女の子
が、一緒に通園した高柳富貴子ちゃん
聖鐘せいしょう幼稚園の第1回卒園式(1949年3月)
左端が笠井満男先生、右端が武田昌子先生。
私は3列目の左から4人目。
2列目右端が一緒に通園した高柳富貴子ふきこちゃん

    尼崎市立大庄小学校に昭和24年(1949年)に入学し、1年1組、2年10組、3年1組を、豊田幸子さん、上島美智子さんとともに最優秀の児童で過ごし、毎年、学芸会では主役と準主役で演劇に出演して観客をかせていました。この3学年とも担任の先生は宇佐見こう先生(または、宇佐見孝子たかこ先生[註2] でした。先生には大変可愛かわいがっていただき、また、大変お世話になりました。有難ありがとうございます。
    蛇足だそくですが、給食のパンは尼崎ベーカリーで美味しいと思いました。このメーカーは、今はもう無いのかな?
   以下にかかげた写真のうち、下の段の左と中に示す演劇「良寛りょうかんうさぎ」の練習は、3階鉄筋コンクリート造りの校舎の屋上で行いました。ある日の夕方、暗くなって指導の先生が職員室にもどった休憩きゅうけいのときに、どういう切っけか突如とつじょ天女てんにょ姿の女の子達一人ひとりひとりが、僕たち男の子一人ひとりひとりをおそい始め、僕もある女の子に馬乗りに組みせられてしまったのです。このとき初めて、妙な快感を覚えました。まあ、子供のお遊びでした。


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宇佐見正氏
神戸経済大学予科(現在の
神戸大学経済学部2年)
在学中。
(1949年12月)

[註2] 宇佐見孝子先生宇佐見正氏その2その3 : 1949年4月から1953年3月までの小1から小3までの間ずっと学級担任でいらした宇佐見孝子先生は、京都ご出身の上品でかつ温かみのある大変教育熱心な先生で、すべての児童を優しく教育して下さいました。朝日新聞社にお勤めになられていた旦那だんなさんはお亡くなりになっておられて、未亡人みぼうじんでした。ご子息様の宇佐見正氏も神戸大学経済学部をご卒業の後、朝日新聞社に入社され、新聞や週刊朝日や著書等に皇室関係や宝塚歌劇団関係の執筆しっぴつ著名ちょめいであられました。お二人とも兵庫県芦屋市公光きんみつ町にお住まいでした。宇佐見孝子先生には私の勉学や日常生活に、また母をも含めた交流に、多大なお教えとご支援をたまわりました。厚く御礼申し上げます。まことに残念ではありますが、先生はご高齢で1970年代にお亡くなりになりました。
   一方、これもいたましい話なのですが、宇佐見正氏は阪神淡路大震災の犠牲ぎせいとなられました。ここに、ご冥福めいふくをお祈り申し上げます。私たち少年の頃に芦屋海岸に海水浴に連れて行っていただくなど、大変お世話になりました。

   話は変わりますが、当時はテレビ放送は未だ始まっておらず、ラジオ放送のみで、「話の泉」や「とんち教室」など、NHK第一放送の夜の番組がお茶の間を楽しませていました。

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大庄小学校1年の学芸会
(1950年2月)
宇佐見孝子先生は第3列の左から2人目
前列中央のたこを持っているのが私
宇佐見うさみ孝子先生(大庄小学校2年10組のご担任)
私は先生のぐ前にいます。
(1950年4月)
向かって、私の右が上島美智子さんで、
さらにその右が豊田幸子さんです。

上島さんも豊田さんも僕にとても仲良く
して下さいました。有難うございます。

大庄小学校2年の学芸会(その1)
(1951年2月) 中央主役の良寛りょうかんさんが私
小学校かり付けの小林写真館(尼崎市)
が撮影しているのですが、この写真館の
娘さんが左から2番目の小林さんです。
大庄小学校2年の学芸会(その2)
演技直後の記念写真
(1951年2月)
宇佐見孝子先生は後列左から2人目。
中央主役の良寛りょうかんさんが私
大庄小学校3年の学芸会
(1952年2月)
主役のフクロウ時計が私
(前列中央右)
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第25回兵庫県小・中・高校絵画展
(1952年)特選の「工事場」
父(弘)が撮影


    特に、昭和27年(1952年)、芦屋市立精道せいどう小学校4年生 [註3] のときに図画工作担当の伊藤慶之助先生その2 〔ここに伊藤慶之助先生のお写真が載っています〕) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7) (その8) (その9(〔註〕その5~8はインターネット・アーカイブのバックアップ版〔backup at the Internet Archive〕より)    のご指導のもと、神戸港のビル解体現場を描いた「工事場」というタイトルの水彩画が第25回兵庫県小・中・高校絵画展(1952年)で特選を取ってしまい、神戸のあるデパートの展覧会場にかざられました。その絵は返却へんきゃくできないということで、兵庫県教育委員会に飾られた可能性もあるようです。半年後に私の家族が仙台に転居したため、返却されない仕舞じまいになってしまったのかも知れませんが、真相は分かりません。
    今どこに保管されているのだろう。伊藤先生のお話では、審査員の評は「これは小学生の絵ではない。大人の絵だ。」とのこと。そういえば、前の学校(尼崎市立大庄小学校)の校内展覧会でも入選の常連でしたが、ある日、担任の宇佐見孝子先生は母に「山本君は絵が非常に上手なのですが、ほかの子たちと違って山本君の絵は暗いですね。」とおっしゃったよし
   あの特選の絵は阪神淡路大震災を乗り切ったのだろうか。探していないので行方ゆくえは分からないままです。

    なお、当時の入賞は、上から、「特選」、「入選」、「佳作」の3種と記憶しています。「佳作」は「入選」の下です。しかし、2015年に、茨城県美術展覧会の絵画の部を見学してみますと、「特賞」、「優勝1席」、「優勝2席」、その次が、「奨励賞」という訳のわからない賞があり、「佳作」と続きます。ここで疑問に思ったのが、「入選」が入賞なしではあるが展示が許可されたものとなっていて、「佳作」が「入選」の上になっているのです。これには非常に驚きました。時代とともに解釈が変わっのでしょうか?

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あめ先生(精道せいどう小学校4年2組のご担任)
1952年度 ・秋の遠足にて(姫路城)
私は拡大画像の1列目右から3人目


[註3]  飴慶雲あめけいうん先生、(その2 (両者ともインターネット アーカイブより) : 飴先生は、1952年度(昭和27年度)、兵庫県芦屋あしや市立精道せいどう小学校4年2組の担任の先生でした。先生はほとんどの科目において万能な、大変教育熱心な優秀な先生で、スパルタ式教育を標榜ひょうぼうしていました。体育の時間には、得意の大車輪を披露ひろうして下さり、び箱の上で回転する競技をクラスの児童全員が出来るまで、放課後にかかっても熱心に指導して下さいました。音楽の時間には、ピアノでジャズ演奏を披露して下さいました。理科の授業には、かなり高度の化学実験を披露して下さいました。また、定期的に運動場で校内の全児童に、各種の行進曲に合わせての行進の練習を指導されていました。美しい行進が人生の基礎とお考えになっていたと思われます。
   飴先生は実直で正義感が強く、児童が不貞ふていなことをしているのを見付けると、「コラッ。山本ッ。貴様は何をやっている。こっちへ来いッ。」というように児童を呼んで、容赦ようしゃなく往復ビンタを食らわせます。(私は真面目でしたので、この経験はありません。念のため。)悪童あくどうどもは、飴先生の名を聞いただけで顔を青ざめ、恐怖で震えるのですよ。素晴すばらしい先生でした。現在、このような先生が居られなくなり、教育現場が難しくなっています。
   この年(1952年)は精道小学校創立85周年に当たり、記念講堂が落成らくせいし、この講堂で盛大に記念式典がり行われました。全児童に、立派りっぱな記念誌が配布されました。なお、この年(1952年)の夏、甲子園で開かれた全国高校野球選手権大会で、地元の県立芦屋高校が優勝しています。ちなみに、精道小学校の授業時間や休み時間の合図は、甲子園球場と同じようなサイレンでした。今は、分かりません。

     なお、伊藤慶之助先生の"下のお名前"と"先生の関連サイト"は、サイト「伊勢志摩きらり千選」の『みんな投稿欄』での偶然ぐうぜんの出会いで、アートタキその2) (その3) (その4) (その5) (その6) さんから教えていただきました。具体的には、『みんな投稿欄の9月14日(月) 11時26分のアートチキさんの投稿欄で9月14日(月) 20時0分に私(N.Y.)が「伊藤先生」の消息をおうかがいしたところ、9月19日(土) 19時50分にアートタキさんが私に回答して下さった』ということです。2009年のことです。有難うございました。 また、私が2009年8月30日(日)夕方に三重県志摩市阿児町あごちょう立神たてがみにある西山慕情ぼじょうケ丘展望台に来たとき(下図参照)に、偶然、石倉 明氏(伊勢の方)と「志摩の鳥人ちょうじんその2)」で有名な松本高正氏と出会い、石倉氏(昔のハンドルネームが「A.I」さん、現在のハンドルネームが「キラキラ親爺」さん)が投稿されているサイト「伊勢志摩きらり千選」を教えていただいたことが切っけでした。有難うございます。


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右から、松本高正氏、石倉 明 氏、私
私の妻・暁子さん
三重県志摩市阿児町あごちょう立神たてがみにある西山慕情ぼじょうケ丘展望台にて
2009年8月30日(日)夕方
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中学校入学記念
1955年(昭和30年)4月

   こうして、幼稚園、小学校と中学校1年生までの少年時代は、いつも世の中が自分を中心に回っていて平穏へいおんに過ごしたのですが、・・・。

   北海道札幌さっぽろ手稲ていね町(現・札幌市手稲区)の手稲中学校1年生の冬(1955年[昭和30年]12月)に、氷点下10度の中、級友のクリスマス会の往復4キロの雪道を竹スケートで走ったときに、極寒の空気を肺いっぱいに吸い込んだためか、急性気管支炎になってしまい、それが慢性化して元に戻るまで2年を要しました。

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町内会の夏祭りの準備
北海道札幌さっぽろ手稲ていね町(現  札幌市手稲区)

(1955年8月)   左端が私
セキは全くないものの大量のタンが出るので、学校の授業中は我慢がまんし、休み時間にトイレでまったタンをき出すという毎日でした。この異常を級友は全く知りません。特に病気という感じでなく、また、田舎いなかのこととて、医者には行きません。

   もう1つ、中1の冬(1956年[昭和31年]2月)に、家近くの三宗みつむねの丘の小道を1人でスキーで滑走していたときに、Y 字形に小道が合流する地点で6人の少年少女の乗った鋼鉄製の犬ゾリと衝突し、私のスキーはソリの下にもぐりこみ、私の体はソリに乗った少年たちの上を飛び越えて、
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父の函館はこだて出張のお供
帰り。父撮影。
1955年8月
室蘭むろらん線経由下り急行「とう
」にて。
室蘭本線虻田あぶた
駅(現在の洞爺駅)付近
境界のバラ線のとがったくぎに右目から突っ込んだのでした。目からかなりの血がしたたり落ち、失明間違いなしと思い、こわくて目をつぶったまま町に1軒しかないやぶ医者に見てもらいました。不幸中の幸いで、眼球には傷がありませんでした。しかし、目を開けると、望遠鏡をさかさに見るように小さく見えます。それと、目蓋まぶた裂傷れっしょう(切り傷)の治療のため、しばらくは眼帯をしました。元の大きさに見えるまで復旧するのに1ヶ月かかりました。見える大きさは完全に復旧したのですが、今でも、右目と左目の光軸が少し食い違っています。よって、人と視線を合わせるのに苦痛を感じます。また、今まで視力が自慢であったのが、これ以来、左目から次第におかしくなり、ついに高2のときにメガネをかける羽目に。

閑話休題かんわきゅうだい 中学校1年の初夏、私は同じ日本石油社宅の二通につうさんのお兄さん(当時、中学校3年)と近所のそのお兄さんの同級生の方に連れられて、近くのミツムネの丘を散策しました。このとき、同級生の方がどこかやぶの中から採ってきた「マツの実」とかいう木の実を分けて下さいました。形と大きさは普通のグミの実そっくりで、色はベージュ(うす茶色)、口に含むだけで薄皮うすかわが破れ、この世と思われない甘くて深みのある特有の味の果汁が口いっぱいに広がります。私はこのとき、こんなに美味おいしい果物がこの世にあったのか、と感動。しかしその後、2012年8月になる今まで、再びその果実を口にする機会がありませんでした。あれは何の実だったのだろうかと時々思い出すだけです。
    つい最近、あるテレビ番組で、北海道出身の元 WBC 世界フライ級チャンピオンの内藤大助さんが子供の頃食べていたグスベリーについてお話をされました。このグスベリーだったのだろうか?
   なお、私の家(日本石油社宅)の玄関先にはイチイの木があって秋に真っ赤な実がなり、近所の子供たち共々「オンコの実」と言って、美味おいしく食べていました。(2012年8月22日(水)記)


   わずか半日に70センチも降った大雪の直後の1956年12月の中2のときに、手稲町の真っ黒な社宅から札幌市内に新築された日本石油㈱藻岩もいわアパートに引っ越しました。

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右目負傷
危うく失明

1956年2月
右目負傷直前、日本石油㈱小樽おたる
営業所主催の滑走かっそう競技に出場

1956年2月 小樽・朝里あさり川温泉スキー場

このときに、「ケ・セラ・セラその2)」と「雨に歩けばその2)」というアメリカのヒットチャートが日本でも爆発的にヒットしました。この2曲は大変なつかかしいですが、私の甘くてにがくてからい大学生前半までのハイティーンの幕開まくあけのようでもありました。当時、北海道の若者は、その言葉はぶっきら棒でゴッツイですが性格は大らかで呆気羅漢あっけらかんとしていて、国内の歌謡曲かようきょくだけでなく、外国のヒットチャートを大いに好んでいました。それを受けて、HBCラジオ(北海道放送)やSTVラジオ(札幌テレビ放送ラジオ)、さらには、NHK でも盛んに色々な歌が流れていました。当時は、マスコミから流される音楽のジャンル(種類)が多く、歌謡曲、NHKラジオ歌謡、演歌、シャンソン、タンゴ、ブルース、ラテン、ジャズ、ブギウギ、エレジー、ビギン、ロカベリー、ウエスタン、ポピュラー、ポップス、ロックンロール、ロック、サンバ、マンボ、ボサノバ、ジルバ、ルンバ、ドドンパ、チャチャチャ、映画音楽、テーマソング、フォークソング、フォーク、フォルクローレ、カンツォーネ、ハワイアン、タヒチアン、クラシック、セミクラシック、オペラ(歌劇)、オペレッタ、歌曲、ワルツ、ポルカ、マズルカ、ヨーデル、宝塚歌劇、世界各地の民謡みんよう、教会音楽、賛美歌、ムードミュージック、ミュージカル、行進曲、現代音楽、グループサウンズ、ギターき語り、ウクレレ弾き語り、カントリー(ソング)、ニューミュージック、ニューサウンズ、民族音楽、中近東(アラビア、トルコ)風の曲(または、ベリーダンスの曲)、ガムラン音楽、学校唱歌、子守唄、童謡どうよう童歌わらべうた、日本民謡みんよう浪花節なにわぶし浪曲ろうきょくともいう)、常磐津ときわづ浄瑠璃じょうるり義太夫ぎだゆう謡曲ようきょく雅楽ががく奏楽そうがく(雅楽をしたもの)、長唄ながうた清元きよもと筝曲そうきょく小唄こうた俗曲ぞっきょく都都逸どどいつ、それと、昭和25年(1950年)前後にNHK第2放送で週日の午前における学校放送の番組と番組の間に流れていた3拍子の10小節から16小節の綺麗きれいな小曲(室内楽、または、オルゴールのような演奏で、著名な作曲家が作曲していたと聞いています)、詩吟しぎん、アイヌ民族の歌と楽器演奏、当時のコマーシャルソング、りょう歌、応援歌おうえんかなど非常にはなやかでした。ここに書きたくないのですが、なつかしの曲として軍歌も時々流れていました。

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手稲中学校の運動会での仮装大会
私たち2年B組の出し物は「海賊船かいぞくせん

(1956年7月) 父(山本弘)が写す。矢印の私
が発案と企画をして仲間と作りました。

手稲中学校の運動会での観客席
北海道の運動会は、一家総出の見学です。

(1956年7月) 父が写す。
左端は私達町内の有力者 二通さん
しかも、外国で流行はやった歌がぐに国内にも入ってきました。2000年代に入った現在は、音楽不在と言っても言い過ぎでなく、実に味気ない時代になりました。若い人たちだけが理解できる歌やカラオケばかりで、広い世代を越えた歌や外国(特に、西欧)からやって来る歌は隣国以外、ほとんどなくなってしまいました。国際化はどこへ行ったか?しかし、1990年前後から少女の世界でモーニング娘(モーむす)、おにゃん子クラブが流行っていましたが、2010年前後から、AKB48、きゃりーぱみゅぱみゅ、が国内外で活躍するようになっています。
   2017年11月ごろの NHK FM 放送で、歴史的に正統とおぼしき大和歌やまとうたというものがあることを初めて知り、その放送で流れてきた上品な歌に聞き入ったのでした。

   1950年代の小学校5年生で私は、「心に太陽を、くちびるに歌を」と習いましたが、正統な音楽を再認識して義務教育に盛り込めば、もっとうるおいのある明るい世の中になると思います。

[参考]    中学校1年の同級のある女子の方が2011年11月に私のことを思い出しておっしゃるには、「今風いまふうですと完璧かんぺきなイケメンさん、当時は乙女おとめ心に上品じょうひんでお目々が綺麗きれいだなぁ~とお見受けしておりました。」と人づてに伝えられました。うれしいではないですか。(皆々様、有難うございます。多謝。もし、この掲載けいさいにおいかりならばご連絡ください。削除さくじょいたします。)
   私の妻がひたちなか市佐野公民館の主催しゅさい事業である「ギター教室」に月2回のペースで習っていますが、2012年1月11日に、千葉慶博先生の奥様の毎子様が私の妻に「あなたの旦那だんなさんは素敵すてきね。ご一緒いっしょにギターを習われたらいいのに。」と言われたよし。私はもう69歳になっていますが、そう言われるとやはり嬉しいですね。手前味噌てまえみそですが、こういうことは時々あり、よって私は人前に出るのをためらうのであった。

   以上の生い立ちを勘案かんあんの上、以下をごらんください。


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2.   幼児期の不思議な夢

(1) だ歩けない頃、母が外出している間は布団ふとんに寝かされています。周りが暗くなっても母は帰っていません。そのうち、たたみの下から大きな赤い手が2本、私の体を蹂躙じゅうりんします。私は恐ろしさにギャー。母の帰宅まで泣き続けます。この夢とも現実とも区別がつかないことが再三さいさん起きました。

(2) 2才から5才くらいにかけて何度も何度も同じ夢、夢とも現実とも区別がつかない次の夢を見ていました。
   家族が寝静まっている深夜、台所のかまどの方から戦国時代のいくさのような「ワーーッ。ワーーッ。」と大勢の時の声が聞こえ、次第に寝ている私の方に攻めてきます。頭が割れんばかりに鳴り響きます。「ワーッ。恐いよー。」と恐怖におののきますが、身動きが取れません。
   ところが、寝ている私の直前まで来ると、ピタッ、と止み、スーッと元の静けさに戻ります。両側に両親が寝ていて、天井には幼児の僕のために豆ランプが寒々と点いているだけです。と、その内、また、かまどの方から時の声が上がり、再び私の方に攻めてきます。私の直前まで来ると、また、ピタッ、そしてスーッ、と何事もないように止んで、元の静けさに。これが3,4回繰り返した後に、今度は同じかまどの方から、蒸気機関車がシュッ、シュッ、シュッ、とゆっくり私の方に向かって来ます。「大変だ。」と思うのですが身動きができません。私の直前まで来ると、フッ、と消えて何事もない元の静けさに戻ります。豆ランプだけがいわに点灯しています。
   この夢を幼児期にしょっちゅう見ていましたので、大人になっても「あれは何だったのだろうなあ。」とよく思い出します。母から、先祖が戦国時代に上杉謙信と無関係ではなさそうだ、という感じの話を後年聞いたのですが。


return


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下宿げしゅくの前でキャッチ
ボール
(1963年)
隣室りんしつの中野氏(東北
大学医学部の
同学年生)が写す

3.   幻聴?、くの一?

    私が東北大学工学部に入学したのが1962年。広瀬川はん下宿げしゅく専門のアパートの2階の4畳半に下宿をしていました。このころは「I Can't Stop Loving You愛さずにはいられないその2)」や「可愛いベイビーPretty little Baby」や「Vacation」がヒットしていました。これらの前年のヒット曲「悲しき片想いその2)(その3)」も 2、3年間、ラジオからよく流れていました。
   大学最初の夏休みに、当時、札幌市内の社宅に居住の家族のもとに帰省したところ、父が「周りの人たちは言っているぞ。『なぜお宅さんは息子さんを大学に行かせたのですか。息子さんを高卒で働かせればよかったのに。息子さんを甘やかしていますね』と」。当時は、中卒で働く人も結構多く、大学に進学する人はたったの20パーセントちょっとの時代です。それで私は「夏休みに遊んでは世間に申し訳ない」という訳で、日本石油㈱札幌支店勤務の父が紹介してくれた札幌市内の給油所に夏休み中アルバイトをしました。9月10日に夏休みが終わって仙台に戻り、1年前期の定期試験を無事終えて1年後期には、下宿のまかないのおばさんに頼まれて、石巻いしのまき渡波わたのはからここ仙台まで遠路はるばる私の部屋まで通ってくるある高校生に家庭教師をしていました。彼はどうしても神奈川大学工学部に入りたいという訳です。私も一所懸命に、特に、数学を教えてあげました。翌年3月に彼は、「合格しました。」と大変な喜びよう。親御おやごさんが北仙台で経営しているトンちゃん料理を「いつでも無料で食べに来てください。」と。
   2年前期に、下宿の真向かいの断崖だんがいの下にある大きな屋敷の2階には、短大生と高校生の姉妹2人 [註4] が生活しているのに気付きました。大きな屋敷の家の娘達です。夏休みには、毎日朝から晩まで、仙台市宮町の菅野薬局で薬品の配達を自転車で、東洋製罐せいかん㈱仙台工場や東芝㈱仙台事業所や七十七銀行などに配達のアルバイトに明け暮れしていました。
   夏休みが終わり、9月の前期期末テストの最中から、その向かいの2階の窓の外に、巨大な雨合羽あまがっぱのようなものが幾日も逆さにるされ、室内からかなりの音量で当時流行っていた「悲しき雨音その2)」が流れてきます。一寸ちょっと変だな、という程度の気にはなっていました。期末テストが無事終わり、期末休みが始まった1963年10月の霧の深いある夜にくつろいでいたときに、左耳奥に「結婚して頂戴ちょうだい。」という3人位の女性合唱のような声を感じました。


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次の下宿のおばさん
土谷つちや邦子くにこさんと
トラ猫のトラ
(1965年春)
大変お世話になりました。
おばさんはお若い時に
阪神地方にお嫁に行か
れましたが、旦那さんと
死別されて、仙台に戻
られた由。

    また、現在、書道家を
継がれた岡村まさる氏は、
当時、東北大学文学部
の学生として、私の隣
の部屋で下宿をしていま
した。
その後、氏は東北
大学文学部インド学の
助手に奉職されておら
れたそうです。

    なお、下宿は仙台市
北七番丁(現在の柏木
一丁目)にありました。

首をかしげまして、向かいの家に関係するのでは、と感じました。それが繰り返されるので、「おかしなこともあるものだ。」と濃霧の中を下宿から離れて夜の散歩に行きましたが、左耳奥のその声はついてきます。翌朝もその現象が続くので、一緒に朝食を共にした下宿生達にその声が聞こえるかをたずねましたら、誰も「聞こえない。」と言います。ウーン。真向かいの自分だけねらわれたのかな。
   そういえば、直前の夏休みに、新潟美人の従妹がわが下宿に遊びに来ていて、3日間、行動を共にしたのを嫉妬しっとされたのかな。ウーム。

   向かいの屋敷は青葉城に最短距離にある要害ようがいの地形をなしていて、伊達藩時代によそ者を警戒する忍者の末裔まつえいなのかも知れない、と想像をめぐらすものの、私の奇妙な現象を説明できません。「幻術でやられたのかもしれない。」と思って一寸ちょっとこわくなりましたが、幻聴以上のことはなく、特に気にしなければそれで済みます。この幻聴はどういう理屈で起こるのだろうかと、心霊研究所に相談しようかとも思ったわけです。興味半分に「よし、向かいの屋敷をさぐって見ようか。」とも思いましたが、探るすべはなく、このままではマズイので下宿を変えました。しかし、以前ほどではなくなりましたが、時々、屋敷のある方向からその同じ声がレコードのように左耳奥に感じました。


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真田十勇士
信州上田・手打ちそば処・千本桜にて
長野県上田市・上田城址に隣接する
上田市観光会館にあります。

2013年5月26日(日)
感じてもほとんど気にはならず、むしろ、頭がえて勉学がスムーズになり、電子工学科進学後の学業成績は、電気機械工学が A, B, C, Dランクの C であった以外は、ほとんどすべての科目で A を取れたのですよ。

[註4] この姉妹の母はいつも地味な和服姿であるが、長身で精悍せいかんな感じ。父は小柄こがら。姉妹のさらに上に結婚している姉とその幼女が同居し、姉妹の下に弟もいるかなりの大家族。この家の男衆は目立たずおとなしい。いつも女性の立ち振る舞いと声が目立ち、いつも幼女に大声で「アッ子、アッ子」と呼んで可愛がっている。この姉妹2人の上の娘とは、私たち下宿生と前の路上で時々立ち話をしていた。町内の夏祭りの野外映画を見ていたとき、ふと後ろを振り返ると当時高校生であった下の娘が私の後ろにピッタリとくっついていたのでビックリしたことがある。後年、小学校の同窓会名簿で分かったのですが、結婚していた一番上の姉は、なんと、私の小6 のときの隣のクラスの子であった。

    なお、この年1963年にザ・ピーナッツの「恋のバカンス」が爆発的に流行していました。

    このことがあった2、3年後に、くの一(女忍)ブームが爆発的に流行ったのです。偶然にしては不思議です。それまでの忍者物といえば100パーセント男であり、その主流は、猿飛佐助さるとびさすけ霧隠才蔵きりがくれさいぞうなどの真田十勇士さなだじゅうゆうし地雷也じらいやなどでした。伊賀、甲賀忍者や服部半蔵の忍者ブームはもっと後のことです。
    また、同じ頃に、アメリカで流行った「奥さまは魔女、(その2)」のホームドラマが我が国でも人気を博していました。

   今でも、「あれは何だったのだろう。」と考えることがありますが、皆目かいもく分からないままです。

    なお、3年の夏休みは、父の転勤先である広島市に帰省し、この夏だけは大いに遊びました。父の自転車で国道2号線を広島から宮島、さらに、山口県岩国市の錦帯橋に行くなど、広島市内はもちろん、広島県内をサイクリングに明け暮れていました。4年の夏休みは、東北大工学部電子工学科から派遣されて日立製作所茂原工場に1ヶ月近くの工場実習でした。

    さて、元に戻って、前記の「皆目分からない」ことは、常人が何気なく体験するという空耳そらみみとか以心伝心いしんでんしんたぐいなのか?  しかし、年とともにかんが鈍くなってこの現象はほとんどなくなりました。逆に、これは若さがなくなるようでさびしくもあります。


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広島県音戸おんど瀬戸せとにて
(1964年7月)
この頃、実家は広島に転勤。
間瀬氏(東北大学教養
部の同級生)が写す

   最近では珍しいことですが、ある朝、起きけにリラックスしていると、不意に、左耳奥に誰か女性がつぶやくような「暮らしていけない!」という声ともいえない声のようなものを感じました。「アレッ?」と一寸驚きながら、それは私の意識の外のことであり、我が身と周辺を考えても思い当たる節がありません。近隣の誰かがお金の工面くめんで苦労しているのかな、と真偽は分かりませんが思い過ごすわけです。まあ、空耳でしょう。

    また、一頃、頭がえている状態で1人で運転しているある日、たくさんの対向車とすれ違う中で、一例として、ある車がすれ違った瞬間に「ムショ」という言葉が左耳奥に飛び込んできました。咄嗟とっさに、あの車の運転手は刑務所に入ったことがあるのかな、と思ったわけです。同時に、もし、私の欠点が他人に同じような現象で伝わったとしたら嫌だな、と緊張し、慎重になることもありました。思い過ごしとは思いますが。

   そういえば、私が子供の頃、突然、母が「今、何か言った?」と私に聞くことがありました。いま自分の思ったことを悟られたのかな、と私はハッと緊張しつつ、「何も言わないよ。」と言うと、母は「空耳かしら。」と首をかしげながら、再び家事を続けるのでした。

   これを書いているときに思い出したのですが、故・福田赳夫たけお・元内閣総理大臣が隆盛の頃に「天の声にささえられて・・・」のようなたぐいの発言があり、退陣間近まぢかの頃は「天の声にも変な声がある。」と発言をなさっていました。

   直接関係はないのですが、上記のおかしな事が起きたわずか数日後にアメリカのケネディ大統領が暗殺されました。第2次世界大戦後の約20年間、少なくとも自由諸国で平和を謳歌おうかしていましたが、この事件の謎(真相)が残されたまま、この事件を境に世界は、ハイジャック、テロリズム、紛争、戦争、経済危機などの不安な情勢が続き、現在に至っています。


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土谷邦子さんと下宿の母屋
土谷邦子さんと下宿の玄関
邦子さんの弟様の土谷文吉氏
土谷つちや邦子くにこ様の下宿にて   1965年3月から4月にかけて


【「以心伝心」と「幻聴」の実演をテレビ放映】

    2021年12月1日(水)にテレビ朝日 19時からの番組「たけしの超常現象!?不思議だなニュース」の後半に、ブレインダイバーと称する若い方 (新子景視あたらしけいし氏) の「脳内に飛び込む男の神業かみわざ連発」という不思議な実演が放映されました。
    1つ目は、1人の接触体感が、離れているもう1人に自分自身の接触体感として伝わるというもので、
    2つ目は、1人が脳内で思っている言葉が、離れているもう1人の脳内でその言葉が幻聴として聞こえる。
    というものです。
    被験者はタレントの伊集院光氏と劇団ひとり氏です。周りにビートたけし氏、井森美幸さん、かまいたち氏、弘中綾香アナウンサー等が観客として座っている。
    1つ目の実演では、1人の被験者が目隠しをして、もう1人の被験者は目隠しをしないで、両者離れて椅子に座り、ブレインダイバー(新子景視氏) がある仕草しぐさをして両者の脳に入り込み両者の脳を結びつけるらしい。 ブレインダイバーが目隠しの人に「もし体をさわられた感触があれば、手を上げて下さい。」と言って実演が始まった。 先ず、ブレインダイバーが目隠しの人に触ると、当然、目隠しの人は手を上げる。それを何回か繰り返す。これは当然のことなので、観客は静かにしている。 ところが、ブレインダイバーが目隠しをしていない人に触る。普通ならば、目隠しの人は触られていないので手を上げないはずなのだが、何と、上段左図のように手を上げたのだ。 観客は驚きの声を発し、「恐い、恐い」と言う。つまり、目隠しをしていない人の触られた感触が、触られていない目隠しの人に伝達したとしか考えられないのである。 なお、目隠しをした人は劇団ひとり氏で、目隠ししない人は伊集院光氏であった。
    2つ目の実演では、被験者の1人が目隠しをし、被験者のもう1人は目隠しせずに両者離れて椅子に座り、ブレインダイバー(新子景視氏) が目隠ししない人にたくさんあるカードから1枚のカードを選ばせ、そのカードの内容(言葉)を記憶させる。 目隠しの人の目隠しを外し、2人の被験者を互いに見合わせて、ブレインダイバーが何かの仕草しぐさをして両者の脳を結びつけたようだ (上段右図) 。 さらに、ブレインダイバーが、カードの内容を知っている被験者からもう1人の内容を知らない被験者に目と目を合わせて脳から信号を送るように指示し、脳内の信号を受け取る側の被験者はそれを受け取るような姿勢で相手を見つめている (下段左図) 。 ブレインダイバーが受け取る側の被験者に「何が聞こえましたか ?」とくと、被験者は、「鼓膜こまくからではなく、今まで聞いたことがないような感じの脳内で響くように『ピーナッツバター』と聞こえた」と答え (下段右図) 、それが正解なので観客もびっくり。この普通でない状況が「恐い」と言う。 なお、カードの情報を発信した人は劇団ひとり氏で、情報を受診した人は伊集院光氏であった。

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触られていないのに、
触られた感触で手を上げた
ブレインダイバーが
両者の脳をつなげる

目と目を合わせて脳から脳へ
データの発信・受信を行う
発信者のデータが受信者の脳内に
声となって響く

上の写真は2021年12月1日(水)19時にテレビ朝日で放映された
テレビの録画画面を、デジカメで撮影したものです



【「以心伝心」と「幻聴」の実演をテレビ放映】(その2)

    2022年7月9日(土)にテレビ朝日 23時からの番組「出川一茂ホラン☆フシギの会」の中頃で、ブレインダイバーと称する若い方 (新子景視あたらしけいし氏) の「脳内に飛び込む男の神業かみわざ連発」という不思議な実演が、再度、放映されました。

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    1つ目は、街中の初対面の若い男性に新子氏が「幼稚園や小学校土台の初恋の相手の下の名前を自分に話しかけるように強く念じて下さい」と問うと、10秒ほどで「まい」とその名を正しく言い当て、その若い男性と付き添いの女性2人が非常に驚いた。

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新子氏が試験者と同時発声で
初恋の名前を言い当てる

    以下は、スタジオ内での生撮影。
    2つ目は、スタジオでに新子氏が出川哲郎さん、長嶋一茂さん、ホランさん3人に「ボウルの中に入っているボタンを好きなだけ手のひらで取って握って持っていてください」と指示すると、3人がボタンを取り、各自ボタンの枚数を数えた後、新子氏が一人ひとりの顔を見て、各々が取ったボタンの数を各々の顔から読み取り、取ったボタンの合計数 37枚を言い当てた

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3人が取ったボタンの
総数37枚を言い当てる

    3つ目は、スタジオで、長嶋一茂さんに新子氏が「小学校の初恋の相手の下の名前をひらがなで紙に書かせて、それを一茂さん自身のの胸に当てさせて、一茂さん自身の頭の中で「その名前をさけんでください」と問うと、十数秒ほどで「ゆみこ」とその名を正しく言い当て、一茂さんしか分からないはずの初恋の人の名を言い当てたことに、一茂さんは勿論、同席していた出川さんとホランさんも非常に驚いた。新子氏いわく、「一茂さんの頭の中に入り込み、初恋の人の名前が分かった」とのこと。

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新子氏が、小4の時の長嶋一茂さんの初恋の名前を言い当てる

    4つ目は、2人の感覚をつなげ、一茂さんの思考を出川さんが読み取る。という実験。両者、向かい合わせに立って互いに目を合わせ、新子氏が一茂さんに「一茂さんはご自身のことを出川さんだと思ってください」と話しかけ、出川さんに「出川さんはご自身のことを一茂さんだと思ってください」と話しかける。次に、両者に深呼吸をさせ、新子氏がパチンと指を鳴らし、両者を左右の離れた椅子に座らせる。そのときに新子氏が一茂さんに「ふわっとした感覚がしませんでしたか ?」とくと、一茂さんが「何かちょっと。(ふぁっと)した。おかしい」と答える。向かって一番左側に立って見ていたホランさんは咄嗟とっさに「ええっ。うそでしょ」と一茂さんに言うと、一茂さんは「本当。本当」と答える。そして、新子氏が50枚ほどのたくさんのカードから一茂氏に一枚選ばせて、そのカードに書いてある言葉を一茂さんだけ見てもらい、周りに見えないように、カードの言葉を紙に書いてもらい、それを一茂さん自身の胸に当てて持たせる。出川さんに目隠しをし、「出川さんの第3の目、額に触れますと、出川さんは頭の中で声が聞こえるようになりますので、両耳を手でふさいで、頭の中の声に集中してほしい」と出川さんに言い、一茂さんには「選んだ言葉を頭の中で言っていただきたい。頭の中でイメージを送っていただきたい」と頼む。すると一茂さんは「変なんだけど、何か送れそうな気になっている」と言う。すかさず、新子氏は「その気持ちが大切です。今、お二人の感覚がつながっていますので、うすくならないうちに」と言い、新子氏が出川さんの額に指を当てると、しばらくして、出川さんが突然、立ち上がりながら、「えっ。もう、ちょっと待って。何これ、もう、怖い ! 怖い ! 先生。えっ。もう、怖い ! 怖い ! 先生」と叫び始める。それを見ていたホランさんは、「何。何。えっ。何か聞こえるの ?」。出川さん、「何かじゃなくて。えっ。これ言っていいんですか ? 先生。何かじゃなくて、起こった現象を言っていいんですか ?」と言うと、新子は「はい。はい」と了承。出川さんは「はっきり聞こえたの」。ホランさん、「ええーっ」。番組のスタッフが、「ちなみに、何が聞こえたのですか ?」と訊くと、出川さんが「ウーパールーパー」と答え、何と、それが一茂さんしか見ていないカードの言葉であった。一茂さんはじめ、番組に居合わせた一同は、信じられないことが起こった、と驚愕きょうがくの表情。テレビを見ていてた私は、幻聴を経験したことがあるので、その現象の本当の真実を知りたいと思った。
    番組の最後の方で、出川さんが「先生、先生。誰が言ったんですか ? 僕に ?」。新子氏、「一茂さんですね」。出川さん「今、皆には何か聞こえたんですか ?」。ホランさん、「何も聞こえていません。無音の中で、突然、出川さんが『怖い、怖い』と言い始めたんです」。出川さん、「恐いよ」。そして、マイクや手袋など、使った道具を、一同、仕掛けがないかを探る場面があったが、それはない。最後に、新子氏が「今日から2週間くらいはお互いの事を感じやすくなっています」と注意を述べた。 

(クリックすると拡大します)
一茂さんの思考を
出川さんが読み取る実験開始
新子氏から一茂さんへの注文

新子氏から出川さんへの注文
新子氏が
出川さんの額に指を当てる

脳内の声におびえる出川さん
発信者のデータが受信者の脳内に
声となって聞こえたという

脳内で「ウーパールーパー」
と言う声が聞こえたという
一茂さんが以心伝心で発信した
「ウーパールーパー」のカード

新子氏からの注意点
これが「ブレインダイブ」と新子氏
この意味は「脳内に飛び込む」

上の写真は2022年7月9日(土)23時にテレビ朝日で放映された
テレビの録画画面を、デジカメで撮影したものです


4.   正夢

    私の学部、および、大学院時代の1964年から1970年にかけて、4つの正夢を見ました。普通の夢は今もほとんど毎日見ています。平穏な夢ばかりです。
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正夢に見た
苦しむ柿の木のイメージ
(札幌から広島に地植えした後)

夢に見たのは1964年秋

(1) 1953年、仙台の日石社宅に両親と住んでいた小5のときに、母と私が買って食べた柿が余りにも美味しいので、その種を庭にいたところ芽が出て、2年後に50センチの若木に成長しました。葉っぱが丸いのを見て母は「これはきっと美味しい甘柿ができるでしょう。楽しみだわ。」と期待しました。が、1955年6月に北海道札幌郡手稲町に引っ越すことになり、柿の木も植木鉢に入れて持って行きました。北海道では柿は育ちません。それで、植木鉢のまま、剪定せんていしながらいつも室内に置いていたわけです。北海道における日石の拠点が小樽から札幌に移転してしばらく後の1957年12月に、札幌市南25条西9丁目に日石アパートが完成し、我が家も柿の木を連れて移転しました。さらに、1964年の4月に父の転勤により、家族が札幌から広島に移転したのです。広島では、当然、柿の木は育ちますので、庭に移植し、9年振りの地植えとなりました。
    そのとき私は東北大学工学部在学中でしたので、仙台に下宿をしていました。1964年秋のある朝、一人前に大きくなった柿の木がもだえ苦しんでいる夢を見たのです。枝という枝を動物のようにくねらせて。大学に向かう自転車に乗っているときもそのことが気になって「何処どこの柿の木でどうしたんだろう。」と思い続けました。そのときは、10年も経っているのに、鉢植えのため成長を止められていた可哀想かわいそうな柿のことなど全くおよびもつきませんでした。
    冬休みになって広島の自宅に来たときに開口一番、無意識に母に「柿の木はどうなった?」と聞くと、母は「このあいだ、枯れてしまった。」と言うではないか。私は「えエーっ。本当?」とビックリして、残念な気持ちと同時に、「柿の木には苦労かけたなあ。ご免なさい。大きくなれず、実もならないうちにててしまって。」と神妙な気持はしばらくえませんでした。母も寂しそう。北海道の寒気から、暖かいとはいえ、いきなり水持ちの悪い広島特有の砂地に植えられて、衰弱したのであろう。
   あの夢は、柿の木が苦しんで持ち主に伝えた「虫の知らせ」だったのだろうか。
   その後、柿の苗を買ってきては庭に植え、また買ってきては別の場所に植えを繰り返しますが、近所の子供たちや職人さんにうっかり踏まれたり、自然に枯れたりして、10回近く試みて、その全てが1メートルも育たないままダメになりました。たたっているのでしょうかね。柿の木に関しては。

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正夢に見た父の新居2階からの光景
(大阪府高槻市東五百住町の芥川堤防)

1967年春

(2) 大学院修士課程1年末の1967年早春に仙台の下宿で夢を見ました。ある家の2階の窓からながめると、直ぐ前に窓と同じ高さに堤防があり、幅50メートル位の川の向こうにも堤防があって、その向こうは瓦屋根の続く住宅がたくさん見えます。大阪の淀川よどがわの風景かな。イヤ、淀川にしては川の幅が狭すぎるなあ。夢は天然カラーです。向こうの堤防に近い住宅の1戸1戸をはっきりと記憶できて目が覚めました。
   一方、その年の冬に父が日石を定年退職となったので、実家が日石社宅から大阪府高槻たかつき市東五百住よずみ町の新興住宅地の2階建て一戸建に引っ越しました。私は研究生活が多忙のため、引越しの手伝いができませんでした。この春休みに、父から届いた地図を頼りにその引越し先に里帰りをしました。狭いけれど、まあ、いい家だなあ。いままで実家は社宅生活を続けてきて、今回が初めての念願の持ち家なのです。早速2階に上がって窓の外を見た瞬間、アッ、と驚きました。何と、1ヶ月前に夢で見たあの景色とうり二つです。向こうの川岸にある家々も全く同じです。全ての色彩も。唯一ゆいいつ違うのは川幅でした。実際の芥川あくたがわの川幅は20メートル位でしょうか。
    これは、父が2階からみた景色が、テレパシーか何かで、仙台にいる私の脳裏のうりに届いた、としか説明の仕様がありません。偶然にしては、夢の景色が現実の景色と余りにもそっくり、というか、ほとんど同じなので。この印象が強烈だったので、忘れることがありません。

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仙台からサイクリングで国鉄(現在のJR)仙石せんせき東名とうな駅付近の
奥松島にて
 (宮城県桃生ものう成瀬なるせ町、現在 東松島市)

1965年秋の夕方 この1時間後に雷雨見舞みまわれる。
なお、2011年3月11日 (金)14時46分の 東日本大震災 による
大津波(映像の4分の1から3分の1に進んだ部分)で、
この付近は壊滅かいめつした
[この映像は東松島市野蒜のびる字下沼の
野蒜築港資料館その2)です。]

東松島市内は惨状さんじょうきわめ、この付近のJR仙石線は
1 年
っても復旧せず、代行バスが運行しているよし

(3) 学部4年の1965年秋におく松島のサイクリングに1人で行き、滅多めったに観光客の来ない隠れポイントの絶景をめぐって楽しみました。が、帰り道、まだ奥松島の丘陵地帯の砂利じゃり道を上り下りしているうちに、夜のとばりが落ち、同時に、西の方から雷雨がおそってきました。激しい雷雨の中、民家も人も車もいない無人地帯を、とにかく仙台へ向けてずぶぬれになりながら必死に自転車をぐのであった。3時間の後、ネオンまたたく仙台市内に戻りました。
   雷雨に追われているときは必死でしたが、下宿に戻って一息ついたとき、アッと思いました。これら全ての情景が1ヶ月前に見た夢そのものではないか。雨後の夜の仙台の夜景まで。

(4) 大学院博士課程在学中の1970年頃、仙台の下宿での夢の中で、ある山の上から下を見ています。淀川が流れ、それに寄り添うように、東海道本線、阪急電鉄、東海道新幹線、国道が走り、向こう側も山がせまっています。夢を見ながらも、上記の名前は認識していました。しかし、夢でながめた景色は現実には見たことがなく、何処どこから眺めたのかは全く分かりません。


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夢に見た景色のイメージ
(現実には岩清水八幡宮
からの景色に近かった)

1970年頃
    数年後、茨城工業高等専門学校に赴任中の1970年代末の夏休みに、大阪府高槻市の新しい実家に帰ったときに、上記の夢の景色がどうも気になって、この近くらしいと思い、地図を詳細に検討して、此処ここだと見当をつけて、車で出かけてゆきました。(車の運転免許を取るのが遅かったので、実際に出かけたのが遅れたわけです。)
    ありました。見当を付けた場所から見た景色は夢とほとんど同じでした。今までも正夢を見てきましたので、驚きよりはヤッパリという感じでした。その場所とは、岩清水八幡宮の境内けいだいの北はずれです。今までその場所を知らなかったのですが、このお陰で、歴史や古典文学で有名な岩清水八幡宮に来ることができました。向こうに見える山は天王山で、下に見える例の場所は、1582年に本能寺の変で織田信長に謀反むほんを起こした明智光秀が、備中びっちゅう(岡山県西部)から急遽きゅうきょ取って返した羽柴秀吉に天王山の戦いで敗れた場所です。

    よく言われますが、初めて行った場所なのに、前に来たことがあるようななつかしさを覚えると。上記の正夢もこの類の延長にあると思います。なぜこのことが起こるかは分かりません。いろんな理由があると思いますが、1つに、誰かが眺めた景色が何らかの理由で別の人の脳裏に伝わったのかな、とコジツケたりもしていますが・・・?

    その後、長らく正夢を見ませんでしたが、次の日記に示すような正夢らしき夢がありました。


(5) 竜巻

2016年6月19日(日)曇
    6時半にトイレ小。口呼吸で喉奥が乾燥。左喉奥を調整してまた寝入って、夢を見た。高専で僕が学生に授業をしている。数式を扱う。そのうち、僕1人で薄暗い部屋にいて、2階の外を見ると、北西方向に真っ黒い積乱雲と大きな竜巻が2つあって、こちらにやって来る。Kai先生が隣の部屋で、「避難しなければ」と叫んでいる、という夢を見た。

6月20日(月)快晴、暑い。
    昨夜23時頃に岩手県奥州市で竜巻。昨日朝の夢が正夢になった。


(6) 蛇

2017年2017年2月4日(土)快晴、日中、旅行先の山梨県内の車内は暑さを感じる
    早朝、夢を見る。家の向かいの林の中に、鱗を持った大きな亀みたいな体長5, 60センチくらいの動物がいて、親子ともどもじゃれ合っている。何だろう。僕が仲間内の中にいて、野外で、地面をでると、これまた、亀のような大きなうろこが出てきて、オオトカゲの一種か、大ガエルかもと思う。という夢を見た。

2月下旬から3月上旬のある朝
   大きくない蛇が現れた夢を見た。その時に、「まさか、庭に蛇がいる訳ではないだろうに。」と目が覚めてからしみじみ思った。一寸ちょっと気味が悪いので、日記には記さなかった。

4月6日(木)快晴または晴、夜から雨。暖かい
   11時頃、僕の妻である A さんが「道路の真ん中にひもが落ちていると思ったら、蛇がいる。」と言うので見ると、玄関前の幅5メートルの道路の真ん中に長さ1メートルくらいの青大将が三つ折りの状態でジッと動かない。僕が市役所環境保全課にに電話すると、業者に紹介してもらって電話する。その直後、A さんが H さんの旦那だんなさんに問うと、旦那さんは「車にひかれてじっとしている。」とか言った由。そう言われてよく見ると、そういう状況だ。業者から折り返しの電話で料金の話があった時に「死んでいることが分かったので、放っておいて大丈夫です。」とお断りした。この出来事のついでに、玄関から庭にかけて草取りをしていると、業者がやって来て、「一応、どんな状況かを見に来ました。」と言って、死んで横たわっている蛇をいとも簡単に撤去てっきょなさった。費用は要らない、と業者はおっしゃったが、僕は一応、昼食代として2千円の報酬を差し上げた。もし、蛇が生きていたなら、何処どこに行くのかという不安がよぎったのだが、死んでいたということで、一安心。ところで、蛇は何処からやって来たのだろうか?


(7) ネイサン・チェン選手の逆転優勝

2021年3月27日(土)快晴、暖かい
 4時半に夢を見た。幾人かの人が見ている所で、僕が車を運転して、田圃の中の舗装された広場でカーブを切って曲がった途端、勢い余って、田圃に飛んでしまった。が、直ぐに、手で車を引き上げて、単独で鉾田へ向かおうとする。が、是非、僕について行きたいという青年M君がいる。M君は航空自衛隊百里基地を見たいというので、僕は彼を連れて行くことにする。彼ははアメリカのフィギュアスケート選手・ネイサン・チェンに選手にそっくりなのだ。
 同日の19時半、スウェーデンのストックホルム開催の世界フィギュアスケート選手権大会男子フリープログラムの実況テレビで、ショートプログラムで1位であった羽生弓弦選手が優勝するだろうと誰もが思っていたが、ショートプログラム3位のアメリカの中国系選手のネイサン・チェンがすご技の連続で逆転優勝してしまった。2位は日本の若い選手鍵山選手。羽生選手で念願の王者復帰ならず、3位となり残念だった。
 私が早朝に見た夢で、ネイサン・チェン選手に肩を貸してしまったようだ。


その他、いくつかの予感が当たった出来事が、 予感1予感2予感3予感4予感5予感6予感7予感8予感9予感10、 にあります。


return

    以上は、次のサイト(こちら class_mates 、および、 class_mates ) に似ています。

5. 幽霊ゆうれい? 亡霊ぼうれい?

(クリックすると拡大します)

[参考]上信越自動車道下り線の横川SAの
2キロ手前から見た浅間山

左は妙義山

2011年4月24日(日)12時34分

   工学研究科博士課程1年の1968年8月に、核融合懇談会(現在のプラズマ核融合学会)主催のプラズマ夏の学校が長野県菅平すがだいらでありました。これが終わって、私と同じ研究室の同級生の H. S. 氏(名古屋大学工学部名誉教授)と1年後輩の A. S. 氏(宮城工業高等専門学校名誉教授)と3人で小諸こもろ側から標高2,568メートルの浅間山に登りました。あいにくの曇りと霧でしたが、もし火山爆発が起きたらどうしよう、と考えながら頂上にたどり着き、恐ろしい火口の絶壁には足がすくみました。この日、他の登山客は誰もいません。下りは火山灰に足を取られながらも、まるでスキーのように火山灰の斜面を滑り降り、夕方、軽井沢の「みねの茶屋」に無事下山しました。バスでJR中軽井沢駅に来て、各々の夏休みの予定にと、3人ここで別れました。

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浅間山下山の後、
信越線中軽井沢駅で
手荷物を荷造りする。
A. S. 氏撮影
(1968年8月)
この8時間後に異変が。

   私は特に予定はなかったので、群馬県高崎まで普通列車で来ました。上州は猛烈な暑さ。幾つか旅館をたずねましたが、どこも満室。夜が更けるので仕様がなく、中心から外れた場末の路地裏にあった2階建ての古びた旅館に宿泊をいました。薄暗い玄関に現れたご主人は「申し訳ありませんが満室ですので。」。私は、ここ以外にはもうないだろう、と判断して、「もしよろしければ、女中部屋でも何でも、どんな部屋でもよいですから、お願いします。」(かつての木賃宿きちんやど女中じょちゅう部屋にも止めてもらった経験を生かして。)ご主人はしばらく考えてから、「宿泊用ではないんですが、よろしければ。ただし、綺麗きれいではありません。」私「もう何でも構いません。」。という訳で、玄関を真っ直ぐ進んで、それから右に180度曲がった奥の部屋に通されました。敷いてもらった布団ふとん以外の家具は全くない8畳間じょうまでした。疲れていたので、直ぐに布団に仰向あおむけになり、余りにも暑くてじっとしていても汗がにじむので、上には何もかけません。足の方の隣の部屋からテレビが聞こえます。頭の方には窓があります。両脇は土壁。いつしかテレビの音が止んで、眠ろうと思いましたが、暑くて眠れません。何の音も聞こえません。静かです。今日の登山、大学の研究のことなどを思いつくままに考えているうち、「一体今何時なんだろう?。起きるのもしんどいな。えらい暑いな。さすが上州だなあ。周りに音もなく静かだけれど。」

    ン?   頭の左側1メートル、たたみから30センチの所に何かいるような気配。部屋は真っ暗なので何も見えませんが、その人間の頭の大きさ程度の部分がまわりの空気と違います。ジーと音ともいえないかすかな音のようなものがあり、何かエネルギーがまっているような。とて、起きるほどの勇気と元気もありません。何だろう。耳を澄ませますが、最初はそこにじっとして、それ以上のことは起きません。緊張して動悸どうきは早まります。とにかく眠らなければ、と焦りますが、段々とそういう心境ではなくなってきました。30分経った頃、その見えないエネルギーのかたまりが自分の左側をゆっくり足のほうに移動します。かすかなジーという音を伴うかのように。???
   それが少し離れたので気はやや楽になり、「気のせいかな、登山の疲れと暑さに気がおかしくなっているのだ」、と思いつつも念のため、電灯を点けて部屋の中を点検しました。しかし、家具のない部屋は別に異常ありません。「やっぱり気のせいだな」、ということで電灯を消して眠る努力をしました。暗くなるとやはり警戒心がもたげます。5分間位は暗くなっても静かで何も異常はなかったのですが、・・・。

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このときの
イメージ

群馬県高崎市の
場末の旅館にて

1968年8月
猛暑の丑三つ時うしみつどき


    しかし、やがて、その変な空気のかたまりが復活し、足から体の上を通過して頭へ、そして枕元へと移動するではないか。さすがにこわくなりました。「おい。コラッ。貴様きさまは何物だ。何をやっているんだ。」と心の中で叫びます。一寸たじろいだ感じはありましたが、その塊は枕元の頭の先50センチの所でじっとしています。かすかなジーという音ともいえない何かを発散した重い空気の塊がこちらを見えるように。やはり怖いので飛び起きて電灯を点けると、フッとそれが消える感じがします。枕元をはじめ、部屋中を点検しますが、変なものは何もありません。「おっかしいなあ。何なんだ。電気を点けると何もないしなあ。」。約20分間点けたまま、布団の上にあぐらをかいて、特に枕元を重点的に見守ることにしました。何もおかしなことは起きません。これで少し安心して、また電灯を消して、仰向あおむけになりました。
    しかし、また次第にあの変な空気の塊が枕元に現れるのを感じます。「大変だ。また、出てきた。」。「出あがったな。このヤロー。只じゃ置かないからな。」と心でその得体の知れぬ物をおどします。その物はまた移動を始め、今度は右を回って腹から胸の上に来ようとします。気味が悪くなって、飛び起き、再々度電灯を点けて点検し、30分位点けっ放しにして様子をうかがいますが、何ともありません。古びてはいるけれど、布団が敷かれた普通のたたみ部屋があるだけです。あせりと恐怖と睡眠不足でもうフラフラです。あの暑さは引っ込んでしまいました。時間を確かめる心の余裕もありません。夜中の2時かな。
   数回これが繰り返されましたが、ついに、その得体の知れない重い物が胸の上に居座ったとき、なぜか急に呼吸が出来なくなったのですよ。恐怖で鳥肌とりはだが立ち、「命が危ない!」と飛び起きて、電灯を点け、目を皿のようにして何気なく鴨居かもいを見ると、その真ん中に、縦5センチくらい、横2センチくらいで、黒と朱色のお経が書かれたふだってあるではありませんか。さらに、他の3面の鴨居にも同じ札が貼ってあります。こんなのは後にも先にも見たことがありません。「ああ、この部屋に何か大きな事件があったな。」と思いました。「危なくて、この部屋には寝られない!」。震える体をおして、旅館の主人を呼ぶと、主人と奥様がやって来ましたので、私は部屋にまねいて、あの札の経緯けいいたずねました。そのご夫婦は正座して下を向き、身動きもせずに黙ったままです。私もご夫婦の向かいに座って、この 2 時間の出来事を話し、「この部屋に何かあったのですか。」と聞いても、やっとただ一言、小声で「どうも済みません。」。宿泊を無理にお頼みしたことをすっかり忘れて、恐怖心から、私は「こんな部屋に泊まれるか。もう帰る。料金はいくら?」と言ってしまったのです。「いや、料金はりません。どうもみませんでした。」と、もうわけなさそうに頭をれながら、憮然ぶぜんと立ち去る私を見送ってくれました。

   この後、高崎駅まで深夜の町を歩いて行き、丁度ちょうど到着した登山客で満員の上野行き臨時急行で早朝上野に着き、急行「まつしま」で仙台に帰り、通常の日常生活に戻りました。恐いので、このことは少なくとも1年間は人に話さないで置こうと思いましたが、結局、ここで公表するまで誰にも話していません。あれは真夏の夜の悪夢だったのか? ちなみに幽霊などは今でも信じてはいません。だけど、あれは何だったのだろう。


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6.   父妃殿下?

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ひみつのアッコちゃんのロゴ

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清水きよみずの舞台にて
上品で美しい女子高校生がカメラを
向けてほしそうでしたので撮りました。
1959年10月、札幌南高校の修学旅行で。
もし支障がありますればご連絡ください。
削除いたします。

    父妃殿下とは当時私の左耳奥に飛び込んできた言葉で、妃殿下の父と解釈してください。
   1960年代は、皇太子殿下(今の平成天皇)と美智子妃殿下、そして、浩の宮さまの話題で持ちきりでした。浩の宮さまの未来の妃殿下についても話題になり始めていました。美智子妃殿下と同様に民間から、しかも、今度は理工系の科学者の家系から、さらに、新時代を反映して地方色豊かな優秀な人材から、ということを私は感じました。浩の宮さまとの釣り合いを考えますと、未来の妃殿下は幼稚園の女児以下の年齢か、または、これから生まれる女児が候補になります。その父親の目星を付けるとすれば、20歳代から30歳代の若い優秀な研究者、具体的には、全国の有力大学の理工系の大学院博士課程の学生や助手、助教授あたりが極秘の調査の対象になったでしょう。私のかんで、東北大学工学部電気系にも何かあったような。私個人もその大学院時代に何か行動を探られているような気配を感じ、おそれ多くも、歩いている体や足などに、漆黒しっこくの礼服や日の丸がまとわり付くような錯覚さっかくを覚えたことがあります。歯の浮くような困った妄想もうそうでした。

   当時そういった社会の底流を反映してか、「瀬戸の花嫁その2)」の歌謡曲、「ひみつのアッ子ちゃんその2)」の漫画、「白いブランコ」や「天使の誘惑その2)(その3)」や”京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり”の歌詞で風靡ふうびした「女ひとりその2)」[註5]   や「白い色は恋人の色その2)」や「禁じられた恋その2)」や「この広い野原いっぱいその2)」や「夜明けのスキャット」や「風がはこぶもの」などのポップスが流行っていました。また、原曲は1956年アメリカなのですが、フランスに渡ってシャンソンとなった「パパと踊ろうよ」が1960年代に日本でもラジオからよく流れていました。1965年フランス発の次の曲もあります。「そよ風にのって」。逆に、1968年にアメリカでヒットしたポール・モーリア・オーケストラ演奏の「恋はみずいろその2)」もラジオからよく流れていましたが、最初は1967年にルクセンブルクのヴィッキーが歌っていたそうです。オーケストラでも、例えば「夏の日の恋その2)」や「白い恋人たち」や「ムーランルージュの歌」や「魅惑のワルツ」のようなムードある曲が多くメディアから流れていました。大分さかのぼりますが、1956年の映画「80日間世界一周」のテーマ曲その2)(その3)が10数年にわたってよく聞かれ、海外旅行ブームの火付け役になっていました。また、だいぶ後になりますが、1971年に、シモンズの「恋人もいないのに」、ザ・フォーク・クルセダーズの「あの素晴らしい愛をもう一度」のような純愛と悲恋を唄う歌や、まゆずみジュンの「雲に乗りたい」というあこがれを歌う歌もあり、そして、団塊だんかいの世代の結婚ブームの1973年にチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」が、1974年にダ・カーポの「結婚するって本当ですか」がありました。逆にさかのぼれば、1962年に、Ray Charles が歌う 「I Can't Stop Loving You愛さずにはいられないその2)」やコニー・フランシスの「Vacation」と「可愛いベイビーPretty little Baby」が連日ラジオから流れていました。また、1965年に「そよ風に乗って」というさわやかできれいな曲や「砂に消えた涙その2)」という感傷的なヒット曲がありました。その他、1960年代はそういったジャンルのポップスが世界各国から発信されていました。

   この時代は、平和憲法の下、それ程豊かではなかったが、万民心豊かで、人類史上、最も幸福な時代だったと思います。こんな時代は昨今はまるで無く、今後も永遠に来ないのであろう。(2015年3月7日付記)

    直接関係ないのですが、上記の少し前に、父の所に、和紙の巻紙に達筆な筆で、要約すると「貴殿の息子様(つまり、私のこと)に、娘を是非ぜひお嫁に差し上げたい。息子様が未だ学生さんなので、生活費は私が全て面倒めんどうを見ます。」というご丁寧ていねいな書状が舞い込んだことがあります。父は困惑して、私に簡単な説明程度で「お前が未だ学生だから、お断りしよう。いいな。」と言うのを私も了解して、父は丁寧にその書状を返還したことがあります。今思うに、何方からどういう経緯で結婚を申し込まれたのかを、父に詳しく聞いた方がよかったのかな。
[註5] 歌詞に出てくる女性はどういう方なのでしょうか。架空の女性なのでしょうか。興味がそそられます。作詞家の永六輔さんにお聞きしなければ分かりませんが。


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7.   早逝そうせいされた同級生

    私が40才代からこれまでに気になっていました同級生諸兄のことをまとめて書かさせていただきます。期日はあいまいですので書きません。
   札幌市立柏中学校3年3組の同級生で北海道立札幌南高校1年3組の同級生でもあった R. I. さん、同じく柏中学校3年3組の同級生で札幌南高校では別のクラスであった N. K. さんは、自他共に認める美人で優秀な方でした。特に親しいわけでも、また、特に心に留めるというわけでもなかったのですが、私が社会人になってから、何も考えることがなくてボンヤリしている無心状態のときに、何となく脳裏のうりに R. I. さん、時には、 N. K. さんが浮かんでくることがよくありました。彼女達はどうしているのかなあ、と思いながらも、彼女らは美人だから心に残っているのだな、とその時は考えるのでした。その数年後の同窓会名簿を見ると、アーーッ、お2人ともご逝去されているのですよ。
   これだけならば、同級生なのだから脳裏に浮かぶのは当たり前じゃないか、という反論もあるでしょうが、現在ご存命の方については、無心状態のとき無意識に脳裏に浮かぶということは全くありません。
   男子の同級生についても、高校にせよ、大学にせよ、5、6 名の方々に同じことが起こりまして、その度に神妙な気持になりました。

   そういえば、大学院生のある時期の1週間、ほぼ毎日私の母方の田舎の叔父さんや叔母さんがなつかしく思い出され、そのしばらく後に、父母の実家に里帰りしたときに、「亡くなられたよ」、とか、「意識不明の重態になられたよ」、と教えられたのであった。父方の叔父さんの場合も同様のことがあり、後になって、「余命が幾ばくもないらしい」、と聞かされるのであった。

   各家庭に電話が普及していない小6時代に、お隣の庭でたき火をして遊んでいたときに、お隣りの叔母おばさんから「ある日、秋田にいる叔母さんの声が聞こえたような空耳そらみみがしたと思ったら、その翌朝、そのおばさんの訃報ふほうの電報が届いたのよ。不思議なことがあるものね。」と聞かされました。仙台在住での話です。このたぐいの話は昔はよく耳にしたものです。世相が激変した最近は滅多めったに聞かれなくなりましたが・・・。

   逆の場合もあります。小学校6年の同級で映画にも出演したことのある超美人の子が10年経った頃に、しょっちゅう脳裏に浮かぶので、久しぶりに会った旧友(男子)にたずねると、「年の若いうちに幸せな結婚をして静岡にいるよ」、とのこと。ウーン、難しい。


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8. 昔ののお屋敷

    私が小学校3年のとき、定期的に近所のお友達と阪神電車・武庫むこ川駅の近くにあるお習字教室に通っていました。一戸立てのお屋敷の玄関わきの部屋を教室として使っていまして、お習字の先生は、兵庫県立尼崎高校の先生でもありました。翌年に私が仙台に引っ越しましたので、その後、そのお教室のことはトンと忘れていました。
   時が経ち、1990年代のある年の秋に、私は担任として茨城工業高等専門学校電気工学科4年のクラスを関西地方の工場見学旅行に引率しました。最終日の前日は、学生共々各々が自由研修の日となっていましたので、私は昔住んでいたなつかしい各所をめぐり歩いていました。日れもせまってきたときに、ふと、「そうだ。お習字の先生のお屋敷はこの辺だったな。」と思い出し、45年も前の記憶を頼りに向かいました。
   アーーーーッ!何ということだ。丸焼けになっている。ご近所の叔母おばさんにうかがうと、「おとといの朝に火事になったのよ」。それでも、あのなつかしい玄関と教室の面影がありましたので、写真をろうとしていると、品のよい中年の男性がやって来られ、「何か御用ですか。」とおっしゃるので、私は昔の経緯けいいをお話ししました。「ああ、そうですか。実はその書道教室を開いていたのは父でして、その父が、ご先祖のご仏だんにいつものようにロウソクをともしました。そのロウソクが倒れてしまいましてね。そうと気付かずに、朝の散歩に出掛けてしまったんですよ。」と説明して下さいました。先生はお元気でいらっしゃったのだ。お気の毒のむね言付ことづけをお伝えし、後に、郵送でお見舞金を差し上げました。
   当初、このお屋敷に立ち寄る計画は全くなく、ふと思い出して寄ったことがこの結果でした。虫の知らせがあったのでしょう。


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9.   飛行機のこと

    1945年までの太平洋戦争中に、兵庫県武庫むこ郡鳴尾村州崎すざき(現・西宮市)の大阪湾に注ぐ武庫川の河口に川西航空機製作所があり、時々、日の丸を両翼に付けた飛行機が爆音とともに私の家の屋根すれすれの低空飛行をしていました。これが恐ろしくて、庭にいても家の中に駆け込んで逃げたものです。
   戦況が悪化して、アメリカのB29戦闘爆撃機の編隊が主に夜間、地獄のうなり声を上げて高空を飛来してきます。これも恐ろしい。庭に転がっていた焼夷弾しょういだんのかけらを、鉄道線路の一部と思って玩具として遊んでいました。庭に落下したものなのか、それとも、父が爆撃を受けた勤務先から持ち帰ったものなのかは分かりません。

   小学校低学年の頃、学校から帰ってきたときに突然ラジオ( NHK 大阪第一放送)から「臨時ニュースを申し上げます。羽田空港を発った日本航空の旅客機・木星号が伊豆大島付近で墜落した模様です。詳細は不明です。繰り返し申し上げます。・・・」が入り、印象に残っています。
   時代が下り、1960年早春、私たちは東北大学工学部電子工学科3年の工場見学の一環として、三菱重工業㈱名古屋航空機製作所に自衛隊機の製作現場を見学した後バスで移動中、窓から上空を見ると自衛隊機が1機飛んでいるのが見え、バスの仲間皆が「あっ。自衛隊機だ。」と今見学したばかりの工場を思いながら見ていましたが、直ぐに視界から消えました。2、30分してからでしょうか、バスのラジオからニュースで「つい先ごろ、自衛隊機が墜落した模様です。」と告げるではありませんか。「オイッ。さっき見た自衛隊機ではないのか。」と皆騒然となりました。

   1966年2月から3月にかけて、私は電子工学科4年の卒研の最中でしたが、当時、研究室の先生方と心の中でかなりの確執かくしつがあり(先生方、みませんでした)、当時片平丁にあった研究室を抜け出して、悶々もんもんとして仙台市内を自転車で徘徊はいかいしていました。その夜、1966年2月4日、全日空ボーイングB727機が着陸直前に羽田沖で墜落、1ヵ月後の1966年3月4日、カナダ太平洋航空機 CPAL DC8型機の羽田空港で着陸失敗で大破炎上、翌日の1966年3月5日、イギリス航空機 BOAC B707型機が富士山の乱気流に巻き込まれて空中分解して富士山ろくに墜落、という航空機事故が立て続けに起き、総計300人以上の犠牲者が出ました。海外ニュースに、"日本の空は狂っている"、という論評が出た程です。私の心が乱れたとき、何かが起こるのではないか、という恐怖心が芽生えたのです。
   1982年2月9日の着陸直前の日航羽田沖墜落事故(日航逆噴射事故)や、1985年8月12日夕方に、大歌手の坂本きゅうちゃんその2その3)が乗った日航機がダッチロールの果てに群馬県の御巣鷹おすたか山に激突した事故は未だ記憶に新しいところです。
   そういう訳で、私は飛行機には乗るまい、と心にちかったのです。ただ、新婚旅行だけは我慢がまんして搭乗しましたが。


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KLM オランダ航空機
丁度ちょうど超音速ジェット旅客機・コメット機
到着しました
(写真中央)
羽田空港   1959年10月24日(土)   札幌南高校の修学旅行のときに見学しました。


10.   火災の第一発見者

    これは不思議なことではないですが、普通ではまず経験しないであろうということがありました。
   1961年2月に札幌南高校を卒業しました。(当時、高校の卒業式は早かった。)卒業式の夕方、クラスの有志20名と共に、札幌一の繁華街はんかがいで有名な狸小路たぬきこうじ料亭りょうていで、卒業祝賀パーティーとお別れ会を行いました。料理は日本食だったと思います。えんもたけなわの頃に、私は階段を上がった所にある2階のトイレで小用を足しました。が、トイレの板壁の中からパチパチという音が聞こえ、かすかに、煙が出ているではありませんか。隙間すきまから、炎らしきものも。「大変だ。火事だ。」ということで、あわてて階段を下りてクラスの皆に「オイッ。火事だ。逃げろ。」と知らせ、次いで、5、6人が忙しそうに料理を作っている最中の厨房ちゅうぼうに行き、「火事です! 壁が燃えていますよ。」と連絡しました。それは皆慌てていましたよ。私が第一発見者だったのです。
   皆無事に外に出て、火事見物です。消防車が何台も来て消火に当たりましたが、火の勢いが強くて5、6軒に延焼えんしょうし、2時間以上も燃え続けました。翌朝の新聞には、この大火事の記事が1面全体をくしていました。そういえば、宴会えんかいの料金は払っていないなあ。


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11.   ピシッという音

    私が前触まえぶれがなく突如とつじょとして気分が爽快そうかいになった瞬間、建屋の柱、または、天井、時には外壁がピシッと鳴るのを若いときから現在まで経験してきました。取り立てて言うほどのことではないのですが、不思議なことに、気分の切り替わりに高い確率に起こるのです。これは自宅に限らず、どの家屋でも、木造でも、鉄筋コンクリート造りでも、旅先のホテルでも、昼夜を問わず起こります。私の気分次第のところがありますので、数日何も起きないこともあれば、1日に数回起きることもあり、予測は全くできません。突然です。同じ気分の切り替わりでも、気分が悪化する場合は全く起こらないのです。必ず、無意識のうちに爽快そうかいな気分に切り替わる瞬間だけビシッという音がするのです。その音で、得も知れない満足感がやって来るわけです。私の緊張きんちょう感の開放が、建屋にかっている何らかのひずみの力の解放を呼び起こすような感覚なのです。
   このとき、今まで静かだったまわりの小鳥たちが楽しそうにさえずり始めるのです。偶然ぐうぜんではなく、いつもこの現象が大なり小なり起きるのです。これは、周りの空気がさわやかに明るくなったのだと思われます。社会のムードもこのような伝播でんぱんなのではないでしょうか。
   気温や湿度や、はたまた、風や気圧の気象条件の変化によって、柱や天井などが乾くなどして小さなひずみが生じるために起きるのではないか、その気象変化が感情の変化をも引き起こすために、それらが同時現象として現れるのではないかな、と解釈をしています。
   だけれども、やはり不思議に感じます。私の感情の切り替わりのエネルギーが音を発しているのではないかと。??
   皆様はどう思われます?


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12.   こおろぎ

    現在、私の寝室の縁先に秋になると毎夜1匹のこおろぎが切ない声で鳴いています。20数年前から毎秋、同じ鳴き声で同じ場所に1匹だけ鳴いています。何代目のこおろぎかな、とその度に考えるのですが、鳴く特徴が同じなので、ひょっとして、このこおろぎは越冬して何年も生きているのではないか?、と疑ってもいます。

   母の母、すなわち、新潟県東頸城くびき郡浦川原村真光寺しんこうじ(現・上越市浦川原区真光寺)から嫁いで来られた祖母の福田ツイさんは、1947年2月に70歳 ? で、新潟県中頸城くびき大瀁おおぶけ村大字市村いちむら新田(現・上越市頚城区市村)で亡くなっていますが、この亡くなる直前に屋敷の縁の下からこおろぎの鳴き声が聞こえ始めたそうです。
   これは母の実体験の話です。
   居合わせた沢山たくさんの親戚が「2月の未だ雪深いこの季節に珍しいもんだ。こおろぎがあの世へ呼んでいるんではなかろうか。」と話し合い、こおろぎを探しましたが、どうしても見付からなかったそうです。そのうち、お祖母ばあさんは老衰と肺炎で静かに息を引き取られました。その後、こおろぎが鳴くことはなかったそうです。


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13.   「おーい」と呼ぶ声

    誰もいるはずのない場所で、遠くから「おーい」と呼ぶ声を聞いたのは、今までに3度ありました。

    1964年12月6日(日)の夕暮れ、仙台西北部の吉成から西2キロの山中の無人地帯を自転車で走っているうちに、道がいつの間にか消えてしまい、山中をさ迷うこと1時間、脱出するのに心底青くなったことがあります。5万分の一の地形図は持っています。半径2キロ以内には人が住んでいません。元来た道を自転車を押しながら必死に探しますが、周りは雑木林の似たような地形が続き、浅い谷と低い尾根が入り組んでいるのであせります。見晴らしのいい所で小休止します。何の音も聞こえずシーンとしています。すると、はるか北方の樹海から「おーい。」と誰かが呼ぶ声が聞こえます。それが10秒から20秒間隔で呼んでいます。こわくはないのですが、樹海のどこかに行き倒れた人がいて、白骨化しているのでなかろうか、そして、その何かが呼んでいるのではなかろうか、と勝手に想像します。一息入れて冷静に行動するうち、何とか元の道に戻ることができました。

   1965年5月5日(水)(ゴールデンウィークの最終日)の曇天の寒い日に、宮城県柴田郡川崎町と山形県の境界にある笹谷ささや峠と有耶無耶うやむやの関に向けて、1人サイクリングに出掛けました。仙台から砂利じゃり道を延々えんえんと3時間かけて笹谷部落に着きました。ここが最後の人家です。部落を過ぎる頃から残雪が現れます。峠道を上るにつれ、大量の積雪のため自転車を捨てて徒歩に切り替えました。気温が2度から5度くらいでザラメ状の雪はまっていて、長靴での歩行は楽です。濃霧の中ではありますが、峠まで登れそうに思えたのです。しかし、やがて30度から45度以上の急傾斜になってきました。「どうしようか」と思いあぐんで小休憩きゅうけい。何の音もありません。そのうち、行く手のはるか南西斜面から「おーい。」と誰かが呼んでいるような声が聞こえます。10秒から20秒間隔で呼んでいます。こわくはないのですが、かつて遭難した人がいて、その何かが呼んでいるのではなかろうか、と勝手に想像します。「これ以上、進むのは危険だ。」と判断して、戻りました。


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標高550メートル

標高780メートル

標高800メートル。
自転車を置いて単身登る。
標高840メートル。気温5度。
14時50分撮影
これ以上進むのは危険なので
Uターン。
宮城・山形県境の笹谷ささや有耶無耶うやむやの関へのサイクリング
1965年5月5日(水) 宮城県柴田郡川崎町笹谷にて
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[参考]前年1966年秋
八田研究室の芋煮会いもにかい
作並さくなみ温泉にて


    1967年11月に私たち八田研究室の芋煮いもに会が二口ふたくち峡谷で行われました。八田先生を始め、車を持っている人の車で分乗して仙台から2時間近くの峡谷に辿たどり着き、15人くらいのメンバーで飯ごう炊飯と芋煮の行楽を楽しみました。そのうちの何人かは近くの大東岳登山をして戻ってきました。私は登りません。芋煮会が終わり、15時過ぎに八田先生始め大半の人は車でお帰りになりました。正式な登山姿の佐藤益美ますみ先生(山形大学工学部名誉教授)が、二口峠を越えて山形県側の遊仙ゆうせん峡を経て山寺に抜けるコースで帰るというのです。先生の声がかりで、私を含めた数人が参加しました。出発してまもなく雨が降り始めましたが、たいした雨ではなく、峠もきついものではなさそうなのでそのまま進みます。そのうち雨が雪に変わり、夕暮れの薄暗がりとなり、次第に登りが急斜面となってきます。登山道はぬかるんでスリップもします。雨と雪と汗で全身ずぶぬれ。足元は泥んこ。夜に入り真っ暗になりましたが、体力はありますので皆そのままジグザグの登山道を急登します。さらさらと雪は益々ますます強くなって、まわりは白くなりました。そのうち、行く手よりやや南の遠い暗闇の斜面から「おーい。」と誰かが呼んでいるような声を耳にします。多分聞こえているのは私だけでしょう。それでも皆と一緒に登って行きますが、その呼び声が繰り返しあるので、私は皆に、「これ以上進むと危ないので引き返しましょうよ。」と言いました。すくさま皆は「そうしよう。」と賛同し、真っ暗ななか、雪や雨の泥んこの道をホーホーのていで何キロか下り、やっと、最初に人の気配のする小さなロッジに辿たどり着きました。ここの管理の叔母おばさんにタクシーを頼んでもらい、かなり長時間待った後にタクシー2台がやってきました。真っ暗な雨のなかをタクシーで仙山線の熊ヶ根駅に着けてもらい、ここから列車で帰仙したのでした。ずぶれで泥んこの我々に、タクシーの方にはご迷惑をけました。

   「おーい」という声は、危険回避の防衛本能が無意識のうちに働いた自作自演の結果と思っています。東北地方は人のまばらな所が多いので、人恋しさが関東以南より強く働きます。


return

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秋保あきう大滝
正午頃
姉滝(右上)と妹滝(手前)
二口ふたくち峡谷から盤司ばんじ岩ごしに
山形県境の二口峠を遠望
新緑の峡谷
盤司岩の真下に来る
[参考]宮城県の二口ふたくち峡谷から山形県境の二口峠へ   仙台からのサイクリング
1965年5月21日(金)
天候は、南のち西の風、曇時々晴、15時に激しい雷雨、のち晴、
気温、15度から20度の間


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地下にリング状の陽子加速器が
まっている土手どて




地下の 50GeV 陽子加速器リング
光速の99.98%まで加速された陽子を
水銀原子に衝突させてニュートリノ
を発生させ、岐阜県神岡のカミオカン
デに向けて地中を通して放射させる。

同 加速器リング

同 加速器リングのつなぎ目 a

同 加速器リングのつなぎ目 b
物質・生命科学実験施設
3GeV 陽子シンクロトロン(加速器
リング)で光速の97%まで加速され
た陽子の衝突によりミューオンや
中性子を生成する装置

2013年5月23日に別施設のハドロン
実験施設で放射能事故があり、
放射性物質が外部に漏れた他、
研究者33名が最大
1.7 mSv(ミリシ
ーベルト)
内部被曝した。
[参考] 茨城県東海村にある(独立行政法人)
日本原子力機構原子力科学研究所のJ-PARCを見学  2009年7月27日(月)
私が住んでいる茨城県ひたちなか市向野団地の主宰で見学に行ってきました。


14.   クォーク粒子

    私が大学院時代の1960年代後半、専門のプラズマ物理学の他に、個人的に素粒子物理学を勉強していました。当時は名古屋大学理学部の坂田昌一教授が提唱した坂田モデル(世界の主要な研究施設で、実験的に素粒子が限りなく新発見されて、陽子、中性子や各種の中間子が素粒子としての資格が問われた時代です)が国内外の理論物理学で注目されていて、名古屋大学や京都大学の理学部の研究者たちによって、坂田模型を中心に活発な理論研究活動が続けられていました。その直後、アメリカのゲルマンによってクォークモデルが提唱されました。おそらく、彼は坂田モデルを模倣したものと思います。まもなく、彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、未だ、クォーク粒子は3種でした。
   1974年に私が高専に赴任ふにんした後、専門が電子および電気工学、制御工学に軸足を移した後は、素粒子物理学とは全く縁を切っていました。
   2000年から2003年のある年の春、高専教員の歓送迎会の席が、筑波の高エネルギー物理研究所から移籍していた四王天しおうでん正臣教授 [註6] と同じテーブルでしたので、 先生に、「今、チャームなどのクォーク粒子はどうなっているのでしょうね。」とたずねてみました。先生は、「トップクォークが1995年に実験的に証明されて、6種のクォーク粒子がそろった。」という。私は、クォーク模型が完成域に達したことを認識したのでした。
   2008年度ノーベル物理学賞南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏の三名に受賞されましたが、対象となった研究論文が1970年代かそれ以前なのに、なぜ受賞が遅れたかというと、「粒子・反粒子における自発的対称性の破れ」が実験的に検証されたのが2002年と遅かったためという。この2002年が、上述に述べた話題とした年とほぼ一致しているということは、私が無意識のうちに、何かを感じていたのでしょう。
   なお、2002年のノーベル物理学賞に、東京大学名誉教授の小柴昌俊教授が、超新星爆発から放射したニュートリノをカミオカンデ装置で検出した、という功績で受賞されています。
[註6] 四王天先生のご先祖は、鎌倉幕府の重臣だそうです。お名前の起源も何か「ゆかり」がおありとか。

   2012年7月4日(水)に CERN(ヨーロッパ合同原子核研究機構)から「ヒッグス粒子とみられる新粒子が発見された」と発表されました。CERN で研究された世界中の多くの研究者による膨大ぼうだいな研究データから最近得られた結論のようです。ヒッグス粒子は1964年にイギリスのピーター・ヒッグス博士が理論的に予言した「素粒子に質量を与える素粒子」で、この発見により、現在の素粒子物理学の基盤となっている「標準モデル」の素粒子 17 種がすべて発見されたことになります。なお、クォーク粒子 6 種もこの 17 種の内に入っています。
   残された問題は、光や物質よりもはるかに多く銀河や銀河団に充満しているとされるダークマター(暗黒物質)、および、「標準モデル」に組み入れていない重力子、および、宇宙の加速膨張の要因として存在が予測されているダークエネルギーがあります。
   (以上、科学雑誌「Newton 2012/9」を参考にしました。2012年8月23日(木)記)

[参考] 茨城県東海村にある(独立行政法人)日本原子力機構原子力科学研究所(旧称 日本原子力研究所東海研究所)にアメリカの援助で我国初の原子炉(実験用原子炉)JRR-1 が設置され、1957年に臨界に達しました。この原子炉は現在コンクリートで固められて、下の画像のように見学用に公開されています。


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(クリックすると拡大します)
日本初の原子炉の説明板
日本初の原子炉 JRR-1
同左 (上から見る)
茨城県東海村にある(独立行政法人)日本原子力機構原子力科学研究所
(旧称 日本原子力研究所東海研究所)にて
 2007年7月27日(月)撮影


15.   教授のいか

   東北大学工学部電子工学科5期生である私達のクラス54人が4年になって間もない1965年5月に、卒業後の進路希望の調査がありました。当時の大学院進学は学部の3分の一のせまき門でした。

(クリックすると拡大でご覧なれます)
東北大学大学院電子工学専攻と
電気及通信工学専攻との合同謝恩会

1968年3月26日   仙台市キリンビアホール
電子工学科時代の同級生は20人います。
和田教授は前列中央の花飾りの直ぐ左。
私は4列左から2人目。
フラッシュメモリの発明者・舛岡富士雄
は後から2列の左8人目。

もし支障がありますればご連絡ください。
削除いたします。
ある日、私達クラス一同が講義室に集められ、固体電子工学の権威であった和田正信教授その2) が滾々こんこんと説教です。「君達はおかしい。狂っている。君達は何を考えているんだ。考え直せ。」といか心頭しんとうなのです。今年に限って、私を含め大学院進学希望者が大部分だというのです。これには、和田先生を始め就職担当の先生方は私達の進路指導のスタート点でパニックになってしまったようです。いわく、「今年の君達の成績が余りにも良すぎるのだ。君達は少しおかしいのではないか? 例年ならば、確かに君達はすべて、大学院に進学できる成績を取っている。だからと言って、就職よりも大学院を選ぶ君たちがおかしい。大学院進学の定員が限られている。研究は就職しても十分出来る余地がある。考え直して見給え。」ということで、その後、学生全員が毎日、一人ひとり教授室に呼ばれて、就職相談や就職への進路切り替えの説得が続きました。前年度は逆に成績が振るわず、逆の意味で大変だったようです。
   教授室に呼ばれた私の場合、和田先生と菊地先生が大きな紙の成績表を見ながら、和田先生が「君を松下電器か東芝か日立を推薦すいせんしてあげようと思うが、どうかね。」と切り出し、私が、「大学院で是非研究活動をして世の役に立てたいと思います。」と言うと、先生方は改めて成績表を見て、「ウーン。確かに君が希望する理由は分かる。だが、松下ならば特段で推薦してあげるよ。」とおっしゃるのを私が再度進学希望を述べると、先生方は直ぐに就職への説得をあきらめました。
   最終的に、進学希望者は18人に絞られ、9月に実施された大学院入学試験にはその全員が合格し、外部からの合格者1名を加えて、大学院工学研究科電子工学専攻には19名が進学することになりました。ちなみに、試験科目は、英語、ドイツ語、電気磁気学、電気回路学、電子回路学だったように記憶しています。そのレベルはやや難しい程度のものでした。
   この優秀なクラスから、フラッシュメモリの発明者であるます岡富士雄氏(東北大学名誉教授)がはい出しています。 詳しくはこちら class_mates
   現在、大学生の学力低下がなげかれています。上述の再現が望まれる所です。

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日立・茂原もばら工場の社員家族旅行で
原海水浴場へ
左から
金井君(東大)、古賀君(京大)、
柴田君(中央大)。
山本が撮影。このあと
服部総務係長の ご案内で背景の丘で
ある鵜原理想郷を探訪しました。

1965年7月25日(日)曇
もし支障がありますればご連絡ください。
削除いたします。


日立・茂原もばら工場での懇談会
前列中央は
高橋部長、後列左から
畑課長、私の配属課の岩柳課長、
北川課長、山田課長、鈴木課長。

日常生活でお世話戴いた
服部総務係長が撮影。
1965年7月30日(金)夕方
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[後日談] 大学院希望の学生は、受験の準備を考慮して4年時の工場実習が免除めんじょされますが、何か後ろめたく感じましたので、私1人だけ1965年7月12日(月)から31日(土)の20日間、千葉県茂原もばら市にある㈱日立製作所・茂原工場(現 ㈱日立ディスプレイデバイシズ)に実習に行きました。この工場には、東大、京大、中央大生とともに4人参加でした。私は大パワーセラミック送信管の電極最適配置の設計を、その当時では珍しかったテーブル型の計算機を駆使くしして行い、1ヶ月で工場にその研究論文を提出しました。ただ、ドイツ製の最新型送信管用の真空装置を実験中、うっかり破損させてしまい、茂原工場さんに平謝りに謝りました。岩柳課長さん(後に分社化の社長さん)や係長さんには大変ご迷惑をおけしました。申しけございませんでした。
   私は5月からほゞ毎晩、下宿で電気磁気学は問題集を中心に復習し、ドイツ語は豆独和どくわ辞典3千語を丸暗記して、9月に入試にのぞみました。合格してからしばらくして、周囲の人たちから「山本君の大学院入試試験がトップ成績だってな。」と言われるようになり、私は「ええっ?」と言うのみ。それは本当なのか、本当だとすれば、どこかられてきたのか。知らぬは本人だけかも。今もって真偽しんぎほどは分かりません。
   大学院修士課程に進学後、私の研究用実験装置を製作するために、電気系工学科付属ふぞく機械工場に時々出けていました。そのたびに、上田幸作工場長はじめ数人の工場職員が「江戸一番という言葉があるが、・・・・・」というように大声で楽しそうに話し合っているのです。私は旋盤せんばんやボールばんで作業していますので、何の話題かは分かりませんが、私は「僕のことをうわさしているのでは。」と勝手に、また、自分に都合つごうがよいように解釈かいしゃくして、ほくそんでいました。ハハハ。

   なお、上記、茂原工場の実習を終えた2日後に、源頼朝が隠れていたという仁右衛門にえもん島を訪れました。それが次の写真です。


               (クリックすると拡大でご覧なれます)
案内嬢
清楚せいそ綺麗きれいな方でした。

もし支障がありますれば
ご連絡ください。削除いたします。
鴨川かもがわ太海ふとみ仁右衛門にえもんにて (千葉県) 1965年8月2日(月)霧


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16.   音楽の先生のいか      

    1953年(昭和28年)5月に、日本石油㈱に勤めていた父 (こちら yamabiru) の転勤で、兵庫県尼崎市から仙台市半小町はんこまちに引っ越して来て、仙台市立八幡はちまん小学校5年7組に編入しました。たまたま、隣家りんけの伊藤さんの旦那だんなさんが仙台市教育委員会、奥様が市内の小学校の先生で、その長女の方(千恵子ちゃん)が東北大学教育学部附属小学校3年生でした。その家の人と懇意こんいになり、「附属小学校で各学年ごとに編入試験がありますよ。」と私の両親に教えて頂いたらしいのです。たまたま、附属小学校も家から比較的に近くにありましたので、挑戦ちょうせんつもりということもあり、受験したわけです。6年編入は私を含めて5人の受験者がありましたが、私だけ合格し6年1組に編入しました。1955年3月に無事そこを卒業し、北七番丁にある附属中学校に入学したわけです。1年4組です。

(クリックすると拡大でご覧なれます)
東北大学教育学部附属中学校1年4組
美男美女ぞろいです。私は2列左から2人目

1955年4月撮影
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削除いたします。

    入学後の最初の音楽の授業。中年男性の和久井昇先生その2その3)がややおくれて教室に入ってきて出席を取り始めました。音楽の授業ということと、先生が来られるまでがあったことから、私たちに緊張きんちょう感がなく、ざわついていました。私もとなり上山かみやま訓史のりちか君とおしゃべりです。それでも、先生は出席を取り続けていましたが、全部取り終わらないうちに、突然とつぜん、先生は教壇きょうだん椅子いすを窓ぎわの壁にドカーンと投げつけ、「うるさいっ!! だまれっ!!」。教室はシーン。それからその時間いっぱいに先生は怒鳴どなりながら、滾々こんこん説教せっきょうです。
   次の週の音楽の時間は音楽室です。緊張のあまりシーンとして先生を待ちます。やがて先生が教室に入って何事もなかったかのように出席を取り、「さあ。教科書の〇〇ページの”夏はぬ”を歌いましょう。」と言ってピアノをき始めます。「の花ーのにお垣根かきねに、ホトトギスはや来鳴きなきて、・・・」と斉唱せいしょうします。私の親友であった阿部浩佳ひろよし君(後に丸紅㈱部長)ら歌の非常に上手じょうずな小学校6年の同級生数名がこのクラスにいて、また、私も音感がしっかりしていると自負じふしていましたので、これらがうまく調和したのか、「皆よく歌えてるなあ。」と自分でも納得なっとくの斉唱でした。
   歌い終わると、先生が間髪かんぱつを入れず、「非常にいい! いいねえ。素晴すばらしい。初めて歌うのに、こんなに上手なのは初めてだ。」と感心しきりです。「よし。もう一回歌いましょう。」とピアノを弾き始めます。歌い終わると、「ウーン。いいねえ。素晴らしい。よし。もう一度歌いましょう。」と、この音楽の時間、り返して歌い、そのたびに先生は感心しています。先生のお顔はご満悦まんえつのようで、感動さえしているようです。お世辞せじではないようです。
   5月に、また父の転勤で北海道札幌郡手稲町に引っ越しましたので、その後の様子は分かりません。

   2年後(1957年[昭和32年])の中学校3年のとし、札幌でNHKラジオを何気なにげなくいていると、「NHK全国音楽コンクール・中学校合唱の部、第3位、東北大学教育学部附属中学校。」その2)というのです。あのときの和久井先生が頑張がんばられて、ここまで指導されたのだなあ、と思いました。それに、そのときの私の同級生はは阿部浩佳君や中嶋昭子さん(旧姓 稲沢さん)をはじめ、歌の上手な人たちばかりでした。

    なお、先生の息子さんの和久井康明君は附属小・中学校ともに、クラスは違いますが、私の同級生で、和久井君は後に、東大経済学部を卒業して、現在、㈱クラレの社長を経て㈱クラレの会長おさまっています。


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17.   ゴータマ・シッダールタ

    1957年(昭和32年)に日本石油小樽おたる営業所が札幌さっぽろ支店に鞍替くらがえし、小樽市内や札幌郡手稲ていね町(現在の札幌市手稲区)にある社宅も、1957年12月に札幌市南25条西9丁目に新設された日本石油社員用の藻岩もいわアパートに転居することになったのです。私の一家も手稲町から転居したため、私は手稲町立手稲中学校2年B組から札幌市立かしわ中学校2年8組に転校になりました。柏中学校は古い木造2階建ての校舎で、一学年10クラスもあり、一クラス57人の大所帯でした。
   この2年8組は、愉快ゆかい猛者連中もされんちゅうそろいも揃っていて、クラスはいつも盛況でした。
   社会科の授業は老練な先生が担当していて、私が転校してきた12月には日本史が終わり、世界史が始まり、ある日、インド・ネパールで誕生した仏教の創始者・お釈迦様の話になり、先生が「お釈迦様の本名ゴータマ・シッダールタ と言います。」と言われた途端、青木君や磯部君たちの例の猛者連中が、ゲラゲラゲラ、ワッハッハッハ、ギャッハッハ、と大声で笑い出し、クラス全体もつられて笑いに満ちたのです。ただ、女生徒は冷静をよそおっていたようです。その笑いはこういうことです。
   お釈迦様の本名 ゴータマ・シッダールタ は、「剛玉(男性器の〇○タマを連想)を知ったるか?」、または、「剛玉を知ったのだ」、という風に、性に敏感な年頃の猛者連中が無意識に過剰反応した訳です。

   この教室は2階にあり、隣の2年9組との間の板壁に木の節穴ふしあないていて、猛者連中がより大きく空けたのかもしれません。翌年の1月頃に、石炭ストーブの石炭をかき混ぜたり、灰を振るい落とすための棒状の鉄製の道具・デレッキを休み時間に猛者連中が穴から隣の教室に差し込んで、隣の教室の生徒達にいたずらをしたことがありました。先生に知られて一寸ちょっとしたさわぎにはなりましたが、猛者連中が隣の教室の生徒達にあやまって、それでんだようです。
    それらは、1975年以降にはないような面白い学校時代でした。


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18.   札幌市内でホワイトアウト(猛吹雪)
     (クリックで拡大します)
日本石油㈱藻岩もいわアパート(左側)
今はありません。1993年7月31日

加藤綜和むねかず氏(左)と私(山本)
1957年7月 小樽おたる銭函ぜにばこ海水浴場にて
山本の父(弘)が撮影


    1960年1月の高校2年のある朝、自宅の日本石油㈱藻岩もいわアパート (札幌市南24条西9丁目1118番地。2005年ごろに取り壊されました) から札幌南高校(南18条西6丁目)に、同級で同じアパートの 加藤綜和むねかず[註7]と一緒に徒歩で登校していました。朝から北西風の風雪の中、向かい風に対抗するために、ヤッケに身をくるんで前かがみに歩いて柏中学校近くの南21条の市電通りに差しかかる頃から激烈な吹雪となり、大量に降る雪と雪面から舞い上がる雪粉とで、まるでミルクの中にかったように、周りは真っ白で何も見えなくなりました。物凄ものすご雪煙ゆきけむりのため、自分の手足さえ何処どこにあるのかが分からないのですよ。方向感覚もなくなり完全なホワイトアウトです。

   風速25メートル、気温・氷点下10度。前を向くと、全てがこおりつく強風と濃密で細かな雪の粉が肺にまで達するので、ウッとうめくように息が止まり、頭がクラッときて意識がなくなりそうです。とても前を向いては歩けません。体を丸くして後ろ向きに歩くも、何処どこを歩いているのかが分からないため、また前を向き直しますが、呼吸が止まってしまい、結局、前には進めません。無理に前に進もうと歩いても、道のはしっこが分からないために、体ごと、以前に除雪されて山のように積み重なっている道路ばたの雪の山に突っ込んでしまいます。要するに、見えない、息が出来ない、猛烈に寒い、吹き飛ばされそう、ということで、2人とも風雪を避けるように後ろ向きに体を丸くして立ちすくむしかありません、このままでは遭難そうなんしてしまう。市電通りだというのに。「オイ、そこの民家に避難しよう。」と2人で話して合っていました。本当に恐かったですよ。
   そのうち、さしもの猛吹雪が収まって、普通の風雪(吹雪)がそれに続きました。あちこちで1メートルもの吹き溜まりが出来ている中、無事、学校に辿たどり着きました。
   私は札幌郡手稲町(現 札幌市手稲区)に2年、当時の札幌市内に5年、計7年いましたが、このような猛烈な吹雪は1回のみです。普通の吹雪はしょっちゅうありますが。

   北アルプスを始め、山岳登山での猛吹雪による遭難は毎年あとを絶ちません。上記の札幌市街地でさえも血気盛んな年代の私達が遭難しかけた位ですから、どんなに登山技術が優れていても、万に1つは、必ず冬山で大変なことになるのは目に見えています。特に、本州の都会育ちの方々は、猛吹雪の本当の恐ろしさを知っているとは思われません。札幌と違って、山岳地帯は猛吹雪が2,3日続きますので、比較にならない位に危険です。冬山登山をなさる方は覚悟してのぞまれることを心にとどめるべきです。


[註7] 加藤綜和氏は天才肌の非常に優秀な方で、今でいう北海道学力コンクールの高校入試の模擬テストに全道(北海道全域)トップの成績を収めていました。中学校の頃に既にアインシュタインの特殊相対性理論をマスターしていました。札幌南高校から東京工業大学工学部応用化学科に進学され、卒業後は日本石油㈱[現 JX日鉱日石エネルギー、通称、ENEOS]中央研究所および日本石油精製㈱にお勤めされていました。今は定年退職されたと思います。


            (クリックすると拡大でご覧なれます)

国道5号線(余市よいち町)
国道5号線(小樽おたる市南小樽の札樽さっそん国道)
初冬の北海道(イメージ)   1998年11月21日(土)撮影

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19. ジェーン台風

   (クリックで拡大します)
日石・本田ほんでん社宅
当時はこの窓から正面に
見えるむねの右隣の棟の右
端の家に住んでいました。
台風をながめた2階の小窓と
同じ小窓が正面に見える
棟の右端に見えます。
1969年8月13日(水)撮影

    1950年(昭和25年)9月3日(日)、私が小学校2年のときに住んでいた兵庫県尼崎あまがさき市西あざ本田ほんでん31番地の日石社宅(現在は民間アパート)でジェーン台風その2)の直撃を受けました。どんよりと曇った無風の朝、父が雨戸を開けていわく。「今日、台風が来ると言うんだが、全く静かだなあ。本当に台風は来るんだろうか。」
   午前9時頃から南東から南風がざわざわと吹き出して、やがて大粒の雨も降ってきました。「あっ。来始めたな。」 全ての雨戸を閉め直します。次第に風と雨が強くなり、雨は横殴よこなぐりに。私は2階の階段を上った所にあるおどり場の小さな窓から外をながめています。ここは、風下側なので安心です。外はゴーゴー、ヒューヒューという風の音とザーザーという雨の音、内はギシギシという家のきしむ音が止みません。そのうち、南風の直撃を受け続けている2階の木製の雨戸が、風圧で、目で見ても室内側に弓なりに曲がっているのです。瞬間的にはドーンと大きな音を立てて、暴風が雨戸に激しくぶつかります。すると、震度3くらいの地震が来たように家全体がれ、柱という柱はギーギーときしみます。雨戸は5センチーほど内側に湾曲して耐えています。恐ろしい!! 父の顔は見る見る青くなり、「雨戸が吹き飛んだら屋根も吹き飛ぶ。大変だ。みんな手伝え。」ということで、箪笥たんすをはじめあらゆる家具、さらに、たたみまではがして、雨戸がはずれないようにします。2階の小窓から外を見ると、猛烈な雨は下から降って来るような横殴よこなぐりで、屋根すれすれに見える真っ黒い乱雲が猛スピードで南から北に流れています。木切れ、屋根瓦などがたくさん空中を飛んでいます。一歩も外には出られません。もし外に出ると、人間でも風に吹き飛ばされるし、暴風で舞っている瓦礫がれきに当って大変なことになるでしょうから。武庫川の堤防を見ると、直径50センチ以上、高さ10メートル以上の黒松がスローモーションのように90度まで曲げられ、また元に戻るというような動きを、10秒位の周期でり返し、台風の威力ってすごいなあ、と妙な感動を覚えます。ついに停電、断水。電線が切れたのでしょう。
   それまでも豪雨で暗かったのですが、12時頃にさらに急に夜のように真っ暗になり、風雨が猛烈になりました。風が家にぶつかるド、ド、ド、ドーンという爆弾のような音、グラグラ、ギーギーという地震のような揺れ。小窓から外を見ると、真っ暗な中あらゆる瓦礫がれきが飛び交い、ゴーゴー、ヒューヒュー、ガラガラ、ドーン、ドーン、雨がドーッ、ドーッと地獄じごくのようです。父母は真っ暗な部屋の中に座って、互いに、「一体、どうなるのだろう。」と話し合っておびえています。恐らく、台風の目のすぐそばにいるに違いありません。後で聞いた話では、武庫川の向こう側(西側)の西宮市は午後、台風の目の中に入って、風がぴたりと止み、青空となったそうです。この地獄絵が1時間から1時間半続いたのですよ。14時からは猛烈な風雨がややが弱まり、少し明るさを戻しましたが、それでも、ものすごい風雨が16時ごろまで続きました。要するに、朝から晩まで吹きっぱなし、降りっぱなし、ということです。
   風もかなり収まった17時頃、2階の小窓から見て、すぐ近くのどぶ川が逆流しているのに気付きました。「アレッ、川がさかさに流れているよ。」 そのとき、「高潮たかしおだーッ。高潮が来たぞーッ。高潮だーッ。」と繰り返し叫ぶ男の声が聞こえました。みると、どぶ川の水が道路にあふれ出し、見る見る一帯が水浸みずびたしに。この頃には曇り空ではありますが、風雨は収まり、時々思い出したように強めの風が吹く程度です。日暮れてきました。ついに、15センチの床下浸水となりました。海岸から6キロも離れているのに海水が押し寄せてきたのです。幸い、それ以上には水かさは増しません。やがて、浜の方からボートがやって来て、「海岸地帯はひどい状況だ。すべての家は2階まで浸水している。き出しをお願いしたい。」と近所にれ回っています。
   断水ですが、すぐ近くに井戸水の手押しポンプがありますので、近所の奥様たちはそれで水を確保し、また、ガスは止まりました? が、まだその時分にはたきぎかまどとお釜を使っていましたので、これでご飯を炊き、そしてオニギリをにぎって、ボートの人に渡したのです。幸い、私の家近くは夜半までに水が引きました。停電はしばらく続いたと思います。何しろ、吹きさらしの土地にある電柱という電柱はすべて根こそぎ倒れたのですから。
   このときの高潮はは大阪市内はじめ阪神地方に大きな爪あとを残し、完全に水が引くまで1ヶ月もかかりました。交通機関も復旧するのにかなり日数を要したようです。また、私の学校も浸水で通えない児童も多く、しばらくはまともな授業が出来なかったように思います。校庭から南を見ると、何日も海水につかかったままの田んぼが見られました。

   (クリックすると拡大します)

日石社宅から堤防を見る
かろうじて残った黒松の小木。
台風までは黒松の大木が
並んでいました。当時
住んでいた家のむねはこの
家から左方向2とう目です。

1969年8月13日(水)撮影

   武庫川の河川敷かせんじきにたくさんあった美しい松林は折れたり根こそぎ倒れたりして壊滅かいめつし、残った松の木は半分以下というすさまじい状況でした。台風の目からかなり離れている大阪でも、最大瞬間風速が44メートルですから、私たちの住んでいた所は風速50から60メートルに達したものと私は考えています。同じく、台風の目に近い神戸海洋気象台の風速計は猛烈な風でこわれてしまい、観測できなかったそうです。このジェーン台風は、観測記録にはやゝ欠けていますが、第一級の猛烈な風で知られているそうで、若狭湾から日本海に抜けた後、北海道に再上陸し、北海道で珍しく大きな台風災害をもたらしたと聞いています。
   なお、父母の知人で海岸近くに住んでおられた高橋さんは、命からがら避難したそうで、その後、高橋電気商会を大阪市内に創設し、商売が繁盛はんじょうしているよしです。

    この高潮の教訓からか、阪神地方の海岸線は背の高い防潮堤が築かれ、あの美しかった松林と砂浜の浜甲子園海水浴場や芦屋海岸などは、記憶か写真にしか残らない遠い昔の風景となりました。

   台風の恐ろしさをこの目で見てきた私としては、最近テレビ等でアナウンサが風雨の中を報道していますが、これは危険きわまりない、と思っています。また、台風の中、自動車を運転しているのを見ると、台風の目の近くの恐ろしさに対して無知なのではないか、といぶかっています。私が出会ったジェーン台風の暴風ならば、自動車もひっくり返ると思われますので。強い台風にはくれぐれもあなどることなかれ。

[余話] 右図の写真は、私が東北大学大学院在学当時に父母が再び兵庫県尼崎あまがさき市に住んでいた日本石油㈱本田ほんでん社宅のすまいからの写真ですが、私が小学校に在学中の1950年代に最初にこの本田社宅にいた頃、右図の家の堤防側に向かったとなりむねに、私たち餓鬼がき仲間と時々遊んで下さった「みのるちゃん」、または、「稔お兄さん」が住んでいました。後に1970年代に社交ダンス日本一かがやき、大阪で社交ダンスの先生をなさっていた野田稔氏です。その直後に、稔氏のお母様が私の母に話をされ、母が私に教えてくれたものです。何しろ、かなり昔の話なので、この関係のサイトがほとんどなく、唯一ゆいいつ佐々木ダンス教授所のプロフィールのページに書かれています。私たち遊び仲間としては一寸なつかしい。稔お兄さんは小学校の頃も機敏きびんで活発でハンサムなお兄さんでした。当時流行はやったベーゴマはとても上手じょうずでした。

[余話2] 1950年代のこの本田社宅には、私が記憶している限りでは、上記の野田さんのほかに、糸山さん宗行むねゆきちゃんが私の同級生。また、シェパードのパール[真珠の意]という名犬もいた。1951年に東京に転勤)、真杉さん(さっちゃんというと年下の女の子がいた。1950年に名古屋に転勤)、おとなり安達あだちさん(親友であった貞雄さだおちゃんが1年上のお兄さん)、平田さん菅沼さん(正明ちゃんというと年下の男の子がいた。1952年に小樽に転勤)、小山さん(足の速い1年下の男の子がいた。1950年に鳥取に転勤)、馬場ばばさん(奥様は若林さんで同級の1人っ子の男の子に連れられて、夏休みの1ヶ月間だけ、甲子園のピアノの先生にピアノを習ったことがあります)、長尾さん江本さん利夫としおちゃんが私の同級生で、あの有名ななだ高校出身)、寝屋ねやさん、会社のりょう叔母おばさんの山本さん(一緒に遊んでくださった山本お兄さんがいて、のちに所属して活躍した関西大学グリークラブ [ コーラス(合唱)グループのこと ] が、何らかのグランプリを獲得したとか ) が住まわれていました。

[補記] 関東大震災後、東京大学に地震研究所が設立されたように、このジェーン台風の被害が甚大じんだいであったことから京都大学に防災研究所が設立されています。なお、2011年3月11日の東日本大震災では、1年後の2012年4月に東北大学に防災科学国際研究所が開設されています。 [以上、青葉工業会報(東北大学工学部同窓会報)No.56 (2012年12月)の1ページ掲載の青葉工業会会長・工学研究科長の金井 浩教授による巻頭言を参考にしました。]


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20. 平成10年台風第7号

    1990年代の10年間に、勢力が歴代3位の平成5年台風第13号をはじめ、幾つかの強力な台風が次々とおそってきた特異な10年間でした。地球温暖化の影響が取り沙汰ざたされていました。
   そのうちの1つ、1998年9月22日(火)に平成10年台風第7号が紀伊半島に上陸し、紀伊半島をはじめ、日本各地に多くの災害をもたらし、奈良県宇多うだ室生むろう村(現 宇多市室生)にある室生寺(別称 女人高野にょにんこうや)の五重塔(国宝)が倒れてきた杉の木により大被害をこうむったことで知られています。
    このとき、同じ室生村西谷(現 宇多市室生区西谷)にある父母名義の山林の杉とひのき:計200本以上横倒しになりました。地元の森林組合の杉中成夫しげお氏から私に電話連絡があり、「村の共同テレビアンテナのケーブルが、貴方あなたとこの杉林が倒れたもんで、こわれて使えないんや。それで、ウチが貴方に代わって倒れた杉林を伐採してよろしいですか。」とおっしゃるので、倒木の処理をすべて杉中氏にお任せしました。そこで、杉中氏がった状況写真が下の画像です。その半月後に倒木すべてを伐採ばっさい処分して、翌年に全面的に植林し直して下さいました。氏の対応に感謝しています。

(クリックすると拡大します)
倒壊とうかいした山林
1998年10月5日(月)に撮影
杉中成夫しげお氏に伐採していただく
1998年11月2日(月)に撮影

杉中成夫氏に植林していただく
1999年7月1日(木)に撮影
杉中成夫氏に鹿による
食害防止用ネットを張っていただく

2002年4月30日(火)に撮影
平成10年台風第7号倒壊とうかいした山林
奈良県宇陀郡室生村西谷(現 宇多市室生区西谷)
杉中成夫氏が撮影

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21.   首都高のランプでガス欠

    1980年頃(30歳代後半)の天気のよいある日曜日の午前、何かの用事で中央自動車道から首都高速4号新宿線に入り茨城県勝田市(現 ひたちなか市)への帰途についていました。当時は未だ、常磐じょうばん道も外環がいかん道もなく、首都高6号線の東端は東向島むこうじままでしか開通していません。その先は国道6号線(水戸街道)となります。乗っている車は30万円で買って間もない中古のグランドファミリア(マツダ車 マニュアル3速の排気量1190cc)です。
   通行量が多いですが渋滞もなくスムーズに走り、やがて新宿インターチェンジ付近の右カーブに差し掛かりますが、何を思ったのか、私は思わずハンドルを左に切って、新宿副都心に出る新宿出口へのランプに入ってしまったのです。「しまった。真っ直ぐそのまま進むはずだったのに。」。と、その直後、車の馬力がスーッとなくなり、出口ランプの一番高いところのカーブで止まってしまったのですよ。ガス欠です。次から次へと首都高からランプ出口に向かう車が猛スピードで、私の止まった車のわきをすり抜けていきます。「困ったな。だけど、あのまま真っ直ぐに行かなくてよかった。もし、そのまま進んでいたら、僕のセイで首都高4号上り線が大渋滞になってエライことになっただろう。」と最悪の事態は回避できたので少しホッとしました。ガス欠の警告ランプが付いていない時代です。
   咄嗟とっさにハンドルを左に切ったことが不思議でなりません。意識に登らない何かの予感か、または、第六感が働いたとしか言いようがありません。ハンドルを切った直後でもガス欠の兆候ちょうこうがなかったのですから。
   ひっきりなしにすぐわきを猛スピードで通り抜ける車におびえながら車を降りて、5メートル下にある料金場の職員に大声で呼びかけましたが、聞こえないようです。仕方ないので、小さなポリタンクを持って、ランプ出口への急坂を歩いて出て、すぐ近くにあったガソリンスタンドでガソリンをポリタンクに入れてもらい、再び車まで歩いて戻り、給油して事なきを得ました。冷や汗ものでした。

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[参考2] 東名下り線・富士川SAにて
(ズーム)   
2009年1月1日(木)

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[参考1] 東名上り線・富士川SAに進入
2008年1月5日(土)午後

[第2段] 1985年頃、同僚のO先生の義父の方がお亡くなりになり、その方がお使いになっていた車を使う人がいなくなったため、私が無償でいただくことになりました。日産ニッサンの4速マニュアル車ラングレイ(排気量1500cc)です。その年の正月休みに、その車で、父母の住んでいる三重県志摩しま地方まで帰省しました。茨城から国道6号線、首都高、東名高速道路を通って、伊勢湾フェリーに乗るために、東名・豊川インターチェンジで一般道に降り、豊橋市を抜け、渥美あつみ半島の田原町たはらちょう(現 田原市)の市街地を過ぎたあたりでエンジンルームがオーバーヒートしてしまい、冷やしては走り、また冷やしては走りをする羽目はめに。ついに、ダウン。そこが丁度ちょうど、河三モーターズという修理工場の前だったので急遽きゅうきょ見てもらいますと、ラジエーターに小さな穴が開いて冷却水が無くなったためにオーバーヒートしたとのことで修理をお願いしました。明日から正月明けまでお休みということで、仕方なく、私はバスで豊橋に戻り、東海道線で名古屋に行き、近鉄、バスを乗り継いで大回りして帰省しました。
   よくまあ、東名高速を無事に抜けたものだなあ。また、ダウンした場所が修理工場だったのが不運の中にもいていたようです。河三モーターズにはお世話になりました。有難うございます。


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22.   私の目は青目 ?

      (クリックすると拡大します)

茨城高専の優秀な卒業研究生とともに
私(前列中央)だけが青目に ?
(1980年頃)

    右の写真は、前列中央の私だけ、目が青みがかって写っています。フラッシュの光線の加減や眼鏡めがねのレンズの影響かと思いますが、ひょっとしてどこかに白人の遺伝子も混じっているのかな、なんて考えてしまいます。普段の目は、白目が一寸ちょっと青みがかっていますが、虹彩こうさいげ茶色で、ひとみは真っ黒です。
   そういえば、初めての海外旅行でロサンジェルス空港に降り立ったとき、奇妙にも非常になつかしい気分になったのを覚えています。アメリカの白人は目が大きく柔らかな眼差まなざしで、女性はブスが全く居なくてどれもこれも美人であり、男性もすべて美男子だなあ、と。また、黒人女性も魅力的で美人ぞろい、と思いました。日本に戻ったとき、怒られるかもしれませんが、日本と日本人にはガッカリした記憶があります。
   テレビで欧米や中近東・トルコや中央アジアを見るときも、何か懐かしい感情が出てきます。そこに住む住民の感情が日本人のそれ以上に分かる気がします。遠い祖先の幻影を感じるように。

    ちなみに、インドを含めてインドから西の地域や、中央アジアから西の人々は、歴史的な混血もありますが基本的に白色人種(コーカソイド)になります。インド人もよく見ると青目、金髪も混じっているようで、パキスタンに入ると、ハリウッド女優並みの金髪青目の美人もかなりいるようです。

    くだらない話ですみません。


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23.   前触まえぶれの夢 ?

    茨城高専の先生からのお便りが届く日の早朝に、偶然でしょうが、その先生が夢に現れていた、ということが 2 つ連続して起きました。以下に、日記から書き出して見ます。(もし差し支えありますれば、ご連絡下さいませ。削除いたします。)
    最近は年のせいで感性がにぶっていますが、こういうことが起きるということは、だ私は若いのでしょうかね。

(1) 2011年11月5日(土)曇、弱い南風でやや暖かく、久しぶりに半そで
   夢。高専で学生の定期試験が 10 分後に始まる。教官の僕は担当の 5 科目すべてに試験問題をだ作っていない。10 分がって僕の担当「制御工学」の試験に入り、僕は教室の学生を前にして、く試験問題を黒板にチョークで書き始める。僕が学生の頃、一部の先生は黒板に試験問題を書いていたことを思い出しながら。本来ならば、試験問題を印刷した試験用紙を学生に配布しなければならない。チョークがうまく黒板に乗らず、よく書けない。僕はあせるが、何とか書き進める。一方、(国立)一関工業高等専門学校校長の柴田尚志ひさし先生は僕たちを見ておられる。という夢を見た。
   ・・・(中略)・・・
   12時過ぎに、柴田尚志先生から僕の出版物に対するお礼と先生の著作 1 冊が届く。朝に見た夢はこの前兆ぜんちょうだったのか?

(2) 2011年11月7日(月)晴、やや寒くなる
    夢。高専の電気工学科3階の実験室で僕と木村隼人はやと先生が学生実験に関して、ああしよう、こうしようと 協議する。、特に、1 つのテーマを 2 週にわたって学生が実験するのであるが、効率よく指導して 1 週で終わらせようとか、いや、2 週は必要とか、の議論。そして、木村隼人先生のクラスの 5 年生が 4 人が実験室に入ってきて、送受信機の実験テーマのテーブルにやって来た。背の高い物怖ものおじしない学生が 4 人がテーブルに立つと、実験室の雰囲気ふんいきがガラッと変わった。という夢を見た。
   ・・・(中略)・・・
    12時過ぎに、木村隼人先生から、ご丁寧ていねいなご返事が届いた。朝に見た夢はその前兆ぜんちょうだったのか? 


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24.   父の宝くじが当選

(クリックすると拡大します)
(弘)と母(美枝) 双方78歳
まつり博会場の三重県伊勢市にて

1994年8月
   詳しい年月は分かりませんが、1973年頃に父・弘が日本石油㈱を定年退職ののち嘱託しょくたくとして新潟工事㈱に転勤するとともに大阪府高槻たかつき市東五百住よずみ町に住み始めて数年後に、60歳間近の父が大阪市内の阪神梅田地下駅宝くじ売り場で買った全国自治宝くじのうちの1枚が、当時あった「マイカー賞」に当選しました。300万円相当の好きな高級乗用車がもらえるのです。妹の和子が自宅で新聞の当選番号を調べて分かったそうです。
    なお、当時は未だジャンボ宝くじはありませんで、1等賞金は2000万円程度でした。
    当時の300万円は2012年現在の価値に換算すると700万円位でしょうかね。当時の上級甲種合格の国家公務員(超エリート公務員)の初任給が7万円程度の時代ですから。(2012年は16万円台)。
    よくまあ宝くじが当たったものです。賞金受け取りの手続きは地元の銀行(それとも、郵便局 ? )でとったものですから、国鉄(今のJR)東海道本線・高槻駅のホームから真正面に見えるそのビルにデカデカと「当市からマイカー賞が当選しました」と書かれた横断幕おうだんまくかかげられているではないですか。それを見て母・美枝は「買ったのはここではなくて大阪・梅田なのにねえ。」と言っています。この梅田の宝くじ売り場は当選が多いので有名な所ではあります。
   当時はマイカーブームが始まった時代で、正規の1等、2等・・・のほかに、このような「マイカー賞」なるものがあったのです。ところが当時、父はもちろん、私も含めて私たちの家族には運転できる者がいません。それで、父は高級乗用車の代わりに、現金を支給されました。父は、「このときは助かったよ。住宅ローンを支払うのに大変だったからね。」と喜んでいました。


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25.   C型肝炎ウィルスに感染???

    肝炎ウィルスにはA型、B型、C型があり、A型は経口から、B型とC型は血液接触感染かんせんで体内に入り肝臓をおかします。A型は劇症になりやすい反面、適切な処置で完治されますが、B型とC型は劇症になる場合と慢性化する場合に分かれ、劇症になった場合は短期間で生命をあやうくしますが、多くは慢性化し、適切な処置で病気の進行を抑えることが現代では可能となっています。しかし、慢性の場合で適切な処置をおこたると最終的には肝硬変から肝癌かんがんに至る危険性が大となります。特にC型の場合、一度ウィルスが体内に入るとウィルスを完全に駆遂くつい(駆除くじょ)することが極めて困難とされています。この困難さはエイズウィルスと同様です。日本人はC型肝炎ウィルスの感染者数が非常に多いといわれ、1964年当時のアメリカの著名な駐日大使であったライシャワー氏が暴漢に太ももを刺されて輸血を受けたことが原因で慢性のC型肝炎になり、それが悪化して1990年に亡くなられたことは記憶にそう古くはありません。
   なお、C型肝炎ウィルスは1989年にやっとその存在が確認され、それまでは非A非B型とも呼ばれていました。
   前置きが長くなりましたが、小学校高学年のとき私は将来医者になろうかな、と思ったことがあり、それ以来、医学の知識が自然に身についていたものですから。その希望を父に話しましたら、父は「臆病者おくびょうもののお前なんか、血を見ただけで逃げ出してしまう。医者になんかなれるもんか。」と一蹴いっしゅうされ、「それもそうだな」、と思ってあきらめたことがあります。
   さて。本題です。日記から書き出してみます。

       2007年8月10日(金)快晴、猛暑
    9時12分の電車で赤塚駅(水戸駅の西隣)に着く。水府病院(国家公務員共済組合連合会)で胃の内視鏡検査を11時半から受ける。画面上の目視では大丈夫のよう。詳しい検査結果は2週間後。

   2007年8月24日(金)快晴、やや暑い
    10時に水府病院に向かう。内視鏡検査の検診結果を聞きに行くため。12時近くに内科部長のM 先生の診断を受けたところ、先生は「内視鏡検査よりも血液検査の方が大変だ。」という。「内視鏡検査は軽い胃炎がある程度で問題ないのですが。問題は、血液検査でC型肝炎の抗体が
微妙にプラスと出ているのですよ。去年の人間ドックまでは抗体反応はマイナスなのにねえ。」と言う。先生も首をかしげて、「最近、何か(例えば、刺青いれずみ、私的な注射、感染者との血液的な接触など)あったのですか。」と問う。私は「全く思い当たる節はありませんが。」と私も首をかしげます。そのあと、検査用にかなりの量を採血し、1週間後にまた来るように言われた。具体的には、HCV-Ab の数値が陰性の場合は 1.00 未満なのですが、今回の私の数値が 1.02 とのこと。

    2007年8月31日(金)曇、涼しい
    10時過ぎに水府病院に向かい11時に着く。12時過ぎから前回の血液検査の結果について、先生は「今回もC型肝炎ウイルスの抗体反応は
微妙にプラスと出ましたが、ウイルスは見つからなかった。」と言い、私との話し合いでも原因が分からず、先生も首をかしげていた。それで、3,4ヵ月後にまた検査に来て下さい、とのこと。ひょっとして、退職後に要請された研究活動先で、次の日誌に記録した事と関係しているのかな、と思いました。それとも、C型肝炎ウィルスとは関係なく、他の何らかの原因で抗体反応が出てしまったのではないか、と勝手に解釈もしています。

    それは、

    2007年6月21日(木)晴後薄曇後本曇、夕方、雨ぱらつく、かなり汗をかく。夜一時雨
    9時50分にE工房にお手伝いに来る。...早速実験に入る。...13時に「つくば国際短期大学」のK先生がお帰りになる。...僕はプレパラートを洗浄する等のあと片付かたづけ。このとき、顕微鏡けんびきょう用のく薄いガラス製プレパラートがくだけて右手の
人差し指の先を切ってしまい、血が水道水と共に流れ落ちた。大変だ。もし、何らかの細菌やウィルスでも入ったら大変、と咄嗟とっさ戦慄せんりつが走り、傷口から血をしぼり出して丁寧ていねいに水道水と石鹸せっけんで洗った。14時に帰宅。

    私の場合、抗体は微妙ではあるけれども検出された ? のですが、ウィルスは見付かっていないので、少しホッとしました。さらに、あるサイトで、「C型肝炎ウィルス感染後でもウィルスが完全に消えて完治することがある」と書かれていますので、かなり安心感が増しました。多分、ウィルスは本当にいないだろう、と。体調もよいので、3ヶ月後の検査に行くのも忘れてしまったのです。一応、念のため、2年近く経ってから検査に行きました。それを日記から書き出してみます。

    2009年5月11日(月)晴、やや涼しくなる。夜は冷える
    水府病院に10時に来る。待たないで採血され、1時間経ってから茂木先生の診察を受けた。
肝機能は全く正常とのこと。詳しい結果は10日以降に分かるとのこと。

    2009年5月25日(月)未明に俄雨、雷鳴あり、昼間は快晴
    10時に赤塚駅そばの水府病院に来る。すぐ呼ばれ、M 先生が「C型肝炎の
抗体が消えていますね。ウィルスもいないし。大丈夫でしょう。一過性いっかせいだったのかな。」と首をかしげながらも無罪放免むざいほうめんとなりました。(次に示す検査結果を参照)


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10回献血けんけつの記念品
2003年10月24日(金)に頂く

    往年、献血に協力しまして、10回目に右図のような記念品をもらっています。ガラス製の小さなお猪口ちょこでしょうか。献血をして血を抜かれた直後の爽快そうかい感は絵も言われぬものです。国内では輸血用の血液がいつも不足しているようなので、皆様も協力されるとよいかと思います。

   上述とは関係ないですが、医療関係で普段私が思っていることを述べたいと思います。
   例えば、心臓移植などの臓器移植、この国は何をやっているんだ、ということです。10年以上前に、私も臓器移植に登録しようと思ったのですが、この国の考え方や手続きの複雑さとバカらしさに、やる気はせてしまいました。
    ヨーロッパでは、臓器移植が無料でできる国もあれば、有料でも70万円程度と聞いたことがあります。それは、臓器移植しなければならない人は、その人の責任ではなく不運な人なので、これは社会がカバーしなければならないから、という理念のようです。日本人がアメリカやヨーロッパに心臓移植に来ると1億円ボラれるのです。そして向こうの人が皮肉ひにくたっぷりに言うのです。「いったい、日本には人間が何人いるんだい?」と。恥ずかしい話です。10年前ですら人口6千万人のイギリスで臓器移植登録者数は1千万人近くということです。我が国も何とかしなければ。医療技術は優れているのだから。
    ちなみに、私の大学の研究室の後輩である小田島和男氏その2(前 日本原子力研究開発機構・那珂研究所、東北大学大学院工学研究科博士課程、八田研究室出身で、新潟県三条高校時代に剣道部で県大会団体準優勝の由)がイギリス赴任ふにんのときに、現地の医療費は外人でも無料だったよしで、彼はイギリスに大変感激したそうです。

   2009年7月13日に、脳死を一律に「人の死」と位置付け、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)が参議院本会議で可決、成立しました。大変遅れていた我が国の臓器移植がこれにより、臓器移植を必要としている多くの人を救えるという観点で、やっと本格的な実施にぎつけることとなりました。よかった、よかった。

   4年間の空白期間(病院に行かなかった)の後、2011年7月1日(金)に久しぶりに水府病院で人間ドックを受ける機会があり、その血清検査結果を過去2回の人間ドックの結果と合わせて次の画像に示します。ピンクのわくで囲ったところがC型肝炎ウイルスの抗体反応の検査結果です。陰性でした。完全に安心です。


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