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東京都の初等教育から後期中等教育に至るまでの教育界に長年ご活躍された仁藤友雄先生は1998年2月に他界されました。
また、自転車業界で名を知られた仁藤商店は仁藤先生の長兄の方が継がれていましたが、1950年代にお店を閉じています。
1. 仁藤友雄先生の略歴
仁藤友雄先生(同左1)
(同左2)
(同左3)は、
仁藤商会(仁藤商店)【インターネット・アーカイブのバックアップ版〔backup at the Internet Archive〕より】、
(同左1【インターネット・アーカイブのバックアップ版〔backup at the Internet Archive〕より】)、
(同左2[第1章第3節参照])、
(同左3)
の仁藤安二郎氏の五男として1911年(明治44年)9月、
東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)でお生まれになりました。(ちなみに、乙女座だそうです)
1933年(昭和8年)3月 東京府立高等学校理科甲類をご卒業、 1936年(昭和11年)3月に東北帝国大学理学部数学科をご卒業。 専門は統計数学と数学教育と聞いています。 1936年4月に、仙台育英中学校(現在の育英高校)教諭、 1938年(昭和13年)3月に東京府立航空工業学校(後の都立航空工業高等専門学校[現在、都立産業技術高等専門学校に改組])教諭(開校要員として)、 1940年(昭和15年)8月に東京府立北野高等女学校(現在の都立北野高校)教諭(開校要員として)を歴任されました。 太平洋戦争中は、参謀本部の命令により、陸軍将校として砲弾弾頭の軌跡計算等の研究をされました。
戦後は、小学校から高校までの各教諭を経て、
また、先生は青年期に日本キリスト教団・信濃町教会に在籍して、 長年、信徒の教育や聖書研究に献身をなされ、晩年は長老として教会の運営に全力を尽くされました。 教会の聖歌隊に所属して、高い音楽性と芸術性の創生に貢献されました。
先生には、既にお亡くなりになっていた奥様・仁藤妙子(旧姓名 樋口妙子)様の間に二男三女のご子息・ご令嬢 (仁藤澄子さん、山本暁子さん、仁藤弘氏、 江藤恵子さん、仁藤聡氏)に恵まれ、 聡氏は現在でも都内の学校の先生としてご活躍されています。 澄子さんと暁子さんは友雄氏に引き続いて日本キリスト教団・信濃町教会の教会員です。 なお、奥様もそうでありましたが、先生は若い頃からピアノ演奏がお上手であったそうです。 繰り返しになりますが、仁藤友雄先生は常に折り目正しく、仕事熱心の厳格な方でおられ、また、教育熱心で親身あるご指導には定評があられました。 なお、仁藤先生に関しては、長女の仁藤澄子様が 概ね管理されています。 |
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画像外枠の卵形についてはこちら をご参考に |
2. 仁藤友雄先生のご兄弟
仁藤友雄先生には、別サイトで紹介します仁藤正俊氏をはじめ、本人を含めて7人の男兄弟がいます。現在、七男の方のみご健在です。一人ひとりの概略をここに書きます。
3. 仁藤友雄先生が小学校用地を寄付
仁藤友雄先生はお母様から、静岡県内(詳細不明)に所有していた仁藤家の代々の土地を相続し、その土地全てを小学校用地として寄付なされたと、
仁藤友雄先生の次女である山本信雄の妻・山本暁子(旧姓名 仁藤暁子)から聞いています。
年代は分りませんが、1940年から1950年頃と推定しています。
4. 仁藤商会に奉公した「幸ちゃん」とは ??
明治末期か大正初期に、自転車業会で名の知られた仁藤商会(仁藤商店)に1人の少年が奉公していて、
お店の人が「幸ちゃん」と呼んでいたことが伝えられています。
一方、
松下幸之助氏の伝記にも、自転車屋に奉公したこと、また、後に乾電池で点灯する自転車用ライトを考案されたことが書かれています。
両者の時期も一致するそうで、毎日新聞社の記者であった仁藤正俊氏が調査したそうですが、松下氏が仁藤商会で奉公されていたという証拠は見つからなかったそうです。
それに、関西の松下氏が東京の仁藤商会に奉公に来られたのかどうかも怪しく、謎のようでもあります。単なる誤謬でしょうか。
5. 仁藤商会があった場所は今
仁籐商会は今の東京都千代田区神田錦町の
㈱島津製作所の東京支社ビル(本社は京都市)の筋向かいに新築された竹橋(Takebashi)ビルの土地にありました。
3年前まで、更地で、山田建設の資材置き場でした。
1945年以前は、かなりの土地を持っていましたが、大空襲で焼け野原となって以来、多くの流民のバラックが無法に立ち並ぶようになり、
戦後の混乱に乗じて、うやむやのうちに彼らに居住権を奪われてしまいました。
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