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山本弘の実家の寸描

    山本弘の実家は江戸時代から代々庄屋として 新潟県中頚城くびき保倉ほくら(現在の上越市)で受け継がれてきました。
    山本弘は山本清作氏の三男で、男ばかりの5人兄弟の中にいましたが、30歳を過ぎても生き残ったのは次男、三男、そして五男の3人でした。
    本家は横浜に事業家として新潟県を出た後、第一の分家である山本清作氏が、実質的に本家のようになりました。山本清作氏は太平洋戦争の時期に亡くなられています。
    その跡を継いだ長男の義治氏が、山本キミさん(故人、享年91歳)と結婚した直後に死去したのに従い、日本鋼管㈱に勤めて横浜に居られたた次男の 山本清氏(故人)がキミさんと再婚して家を継ぎ、戦後、自作農と保倉村農業共同組合理事長を兼務していました。
    山本弘の弟である五男の大塚正氏(新井市[現・妙高市]で著名な大塚家への婿むこ養子、故人)は、 新潟県内の小学校教頭を歴任。

    山本清氏は4女(千鶴ちづ子さん、あや子さん、美智子さん、 ふさ子さん)、1男(清四郎氏)をもうけます。

    長女の福井千鶴子さんは、上越市内の公立保育園の園長を歴任。定年後、講演活動を行っていました。旦那さんは福井勝亮しょうりょう氏は小学校校長、上越市教育委員会指導主事を歴任。
    次女の田井礼子さんは、東京工業大学工学部機械工学科ご卒業で(前)日本鋼管㈱[現在のJFEスチール㈱]の元技術社員であった 田井義生その2)の妻として、また、 三女の新田美智子さんは、松下電器産業㈱[現在のパナソニック㈱]の社員の未亡人として、それぞれ横浜に在住。
    四女の飯塚房子さんは、旦那さん(飯塚満氏)と共に、新潟県内で小学校教諭、次いで、南アフリカ連邦の ヨハネスブルグ日本人学校の教諭を歴任。 飯塚満氏は小学校校長、上越市教育委員会指導主事を歴任。

    長男の山本清四郎氏は、46歳の若さで小学校校長となり、 ご活躍なされて来られましたが、2008年3月に定年退職されました。 2011年2月11日に63歳の若さで、上越教育界に惜しまれつつ、永眠されました。 なお、清四郎氏が小学校の時の担任の先生が、若き日の福井勝亮氏(上記)であったとのことです。

    大塚正氏の一人息子さんの大塚俊明氏は、東京工業大学大学院理工学研究科修士課程終了の後、高校教諭を経て、新潟県立高田高校教頭、新潟県立 長岡明徳高校校長を歴任後、新潟市教育委員会教育次長を経て、 2013年度から氏の母校である新潟県立 高田高校の校長に就任されました。

    なお、上述の山本キさんのご実家での後裔こうけい者でおられる西條にしじょう憲章氏は、 南北朝時代から戦国時代にわたる田丸氏 (三重県度会わたらい玉城たまき町に 田丸城があってそこを居城としていた) の家老職の直系のよし。 田丸氏が関が原の戦いで西軍に付いたために戦いに破れて、和歌山から越後に流され、越後の上杉氏に預けられたときに、 家老の西條氏も同行して新潟県頚城くびき地方に定住したと、西條憲章氏は語っています。 従って、現在おられる山本家ご出身の方々も山本キミ様(96歳まで御存命)を経由して 田丸氏の家老・西條氏の流れをんでいることになります。 なお、山本キミ様のご出身は所縁ゆかりがありそうな地名の武士(もののふ)という所で、山本家から近場にあります。 山本家の皆様そろって容姿端麗ようしたんれいで上品さと高い教養を備えておられます。

    他方、山本弘氏の長男の 山本信雄 ( このウェブサイトの管理者 ) は(国立)茨城工業高等専門学校の名誉教授。


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山本弘氏のご両親(山本清作さんとミカさん) 清作氏のご子息兄弟
後列中が次男の清氏、
後列右が三男の弘氏、
後列左が早逝された四男の健氏、
前列は五男の大塚正先生

1945年頃 ?
大塚正先生
三重県志摩市阿児町横山展望台にて

1994年8月に山本弘氏が撮影



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updated: 2007.3.25, edited by N. Yamamoto
Revised in Mar. 08, 2015, Mar. 16, 2015, Mar. 21, 2015 and Dec. 10, 2016.