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不思議なこと(下)      山本信雄

飢えに苦しんだ戦中・戦後、そして、表面的に豊かな高度経済成長、そして、バブル崩壊という
激変の時代を、北海道から広島までの各地を22回も移動する人生に、時として不可思議なことに出食わします。
年を重ねるに連れて不可思議なことが理解できるのかと思いきや、不可解のままではシャクなので、
自分に不利益になることは覚悟の上で、今まで誰にも話さなかったことを書き連ねてみます。


不思議なこと(上)目次
1.   まえがき 2.   幼児期の不思議な夢 3.   幻聴?、くの一? 4.   正夢(まさゆめ)
5.   幽霊? 亡霊? 6.   父妃殿下? 7.   早逝された同級生 8.   昔の師のお屋敷
9.   飛行機のこと 10.   火災の第一発見者 11.   ピシッという音 12.   こおろぎ
13.   「おーい」と呼ぶ声 14.   クォーク粒子 15.   教授のいか 16.   音楽の先生のいか
17.   ゴータマ・シッダールタ 18.   札幌市内でホワイトアウト(猛吹雪) 19.   ジェーン台風 20.   平成10年台風第7号
21.   首都高のランプでガス欠 22.   私の目は青目 ? 23.   前触れの夢 ? 24.   父の宝くじが当選
25.   C型肝炎ウィルスに感染???

不思議なこと(下)目次
26.   あの光は何だろう。UFO ? 27.   宇宙人の遺伝子や形態について 28.   阪神パークの劇場で「♪すみれの花く頃♪」 29.   花火工場の大爆発
30.   橋の下のバラック 31.   家庭科の先生にほめられた 32.   級友と化石取りに行った 33.   仙台でのスケート
34.   中2の愉快な仲間達 35.   プールにハリガネムシ 36.   札幌の美人女子生徒 37.   カッコウ鳥のなまの声
38.   高校の同級生が暗殺 39.   担任の先生の自殺 40.   大きな事件・事故と関連すること
   40.1   ある若い女性のこと
   40.2   寿司屋での殺人事件
   40.3   路面電車停留所の大事故
   40.4   ゴルフ場拡張中のブルドーザー死亡事故
   40.5   奥久慈・不動の滝の遭難
   40.6   山火事に遭遇
   40.7   フェリーで渦中の人に遭遇 ?
   40.8   元ハイジャック関係に遭遇 ?
41.   交通事故
42.   那賀川の洪水に出会う 43.   母の死 44.   化学会社で起きた爆発事故の予感 45.   東海道線刈谷駅の記憶
46.   スズメからの以心伝心 47.   銀座散歩の怪 48.   TOKIO 騒動を予感した夢 49.   幼稚園児の交通事故に関する偶然 ?
50.   ビル火災の大惨事だいさんじの予感 51.   ピロリ菌の除菌をしました 52.   コマを回して腰まわりの筋肉が肉離れ 53.   私にはホクロが1つもない
54.   兆候ちょうこう 55.   毎年一輪しか咲かないバラ 56.   すが官房長官の泣きべそ 57.   不快指数
58.   私の血管年齢 59.   腰痛ようつうの原因の1つがトイレ大の後の ? 60.   あとがき 付録 1   夢の中で浮かび出た短い曲
付録 2   福島県いわき市四時しどき渓谷けいこくの紅葉など 付録 3   モミジの落ち葉 付録 4   変わった道路表示と交通安全看板かんばん 付録 5   ベニテングダケ
付録 6   台風一過の夕焼け 付録 7   晩秋における石楠花しゃくなげの狂い咲き 付録 8   熱気球 付録 9   和服姿のトイレ案内板
付録 10   明日への希望が湧く夕空 付録 11   伐採林 付録 12   幻想的な海外のアート 付録 13   鉄道線路を走行できるトラック
余情   きれいなクラシック音楽など


26.   あの光は何だろう。UFO ?

(クリックすると拡大します)
そのときのイメージを描きました
(1) 1985年頃の仕事休みの前日のある土曜日夕方に茨城県勝田市(現・ひたちなか市)の勤務先から1人ぶらりとドライブで 千葉県九十九里浜くじゅうくりはまへ生まれて初めて行ってみました。 冷たい北東の風が吹きすさび、真っ暗に夜のとばりとおに落ち、 厚く低くれ込めた雲の下の九十九里浜は荒涼としたたたずまいでした。明りが全くありません。
    暗闇くらやみの向かい風の中、波打ちぎわまで砂浜を歩いて行き、寄せてくる波に手を入れて海水の感触を楽しみました。 そして、元の位置に戻り、体の向きを変えて、再び暗い海原うなばらながめます。
    ふと、波打ちぎわから東の海上に推定500メートル位先の 海面から50から100メートルの高さにオレンジ色に輝く光の点があるのに気付きました。 「あれ?。さっきはあんな光があったっけ? 無かったよな。」と声にならないひとごとを言います。 低く垂れ込めた雲の下にあるようです。「何だろう? あれは。」 背筋せすじこおりつくようです。 金星かな。いや、方向は反対だし、分厚ぶあつい雲の下にある。飛行機かヘリコプターの光かな? いや、ジッとしている。???  こちらをにらんでいるような。
    当時は成田国際空港が開港して間もない頃で、空港反対派の抵抗が続いていた混乱期です。
    漁船の光かな。いや、違う。漁船にしてはかなり高いところにある。それに、海は時化しけてるから漁船がいるはずがない。 おかしいなあ。何だろう? まさか UFO ではあるまいな。 あそこだけ雲が切れて星が姿を現わしたか? いや、雲がいている気配けはいはない。 一面に分厚ぶあつく低くれ込めたすみのような雲だ。 またたきはまったくなく、どう見ても分厚い雲の下にあるように見える。 おかしいなあ。何だろう。
    それまで自分1人しかいないと思っていたら、ふとまわりを確かめてみると、 海の家のような建物の入り口の暗がりの段差に1組の若い男女がヒシと抱き合ったまま座っているではないか。 彼等からはあの光は横向きなので、見えないかも知れない。 声をかける気にはなれず、あの光が不気味ぶきみなので、早々に車に乗り、あの光をにして、 海岸特有の荒地と畑地の中を旭市あさひしに向かってひたすら車を走らせました。 車を走らせながら、時々、振り返って見ると、その光は次第に遠のいてゆきます。 もし、星の光ならば、遠のくことはありませんので、あの光は星の光ではないようです。 また、その光は動いているように見えませんので、飛行機の光ではなさそうです。一体何でしょうかね、あの不気味な光は。
    運転しながらも心は引きつったままでした。
    深夜に勝田市の家に戻りました。
    やっぱり、飛行機(一般の航空機や航空自衛隊機)の前照灯ぜんしょうとう、または、 エンジンの噴射炎ふんしゃえんだったのかなあ。???  それとも、雲の切れ間から見えた明るい星の光だったのかなあ。???

    この1980年代は、テレビ、新聞、いろいろな書籍・雑誌により、UFO との遭遇や目撃が多発していたように思います。

    その少し前の1979年に 銚子沖40キロ地点で成田国際空港(当時の新東京国際空港)発リオデジャネイロ行きの貨物便が行方不明 となり、現在まで消息不明、との出来事があったことを、たまたま、 2015年6月21日(日)テレビ朝日19時から21時放映の「世界がざわついたマル秘映像」を視聴していたときに初めて知り、 関連ないとは思いつつ、上記のことを思い出すのでした。



(2) 普段は忘れていますが、そういえば、上記以前に 2 回、変わったもの(空飛ぶ円盤?)を見ていました。 両者とも定期旅客便航空機、または、飛行船の見間違いかとも思われますが、分かりません。 その時分の私自身が若くてシッカリしていなかったのと、記憶がおぼろげなので、話の内容が覚束おぼつかないですが、以下のようなものです。
    なお、空飛ぶ円盤は私が小学校低学年当時にすでに話題になっていましたが、この頃には未だ UFO という言い方はありませんでした。 その後、 UFO という言い方が一般に広まり、 歌謡界でも1977年から1978年にピンクレディの UFO がヒットしたのです。ですから、以下の話題は UFO 流行の初期段階でした。

そのときのイメージ 1

(その1) 私が当時の実家(大阪府高槻たかつき市東五百住よずみ町) に帰省していた1970年代前半の天気のよいある日の夕方、私はよど川の堤防をサイクリングをしていました。 まだが明るいなかでの帰り道、実家に近いあくた川の堤防をゆっくり走っていたときに、 堤防下の道路でこの近所と思われる奥様3人が真上を見て空を指差しながら何かわめいています。何をわめいているかは分かりません。 私もられて真上を見上げると、満月の大きさの丸い碁石ごいしの形をした銀色の円盤が夕日を受けて浮かんでいるではないか。満月ではありません。 「あっ。空飛ぶ円盤だ。」とビックリ。内心恐くなり、余り見ないようにして堤防の上の細い道を逃げ帰るように自転車を走らせて家に戻りました。 家に入っても恐怖心が残ります。母に話しましたが、母は関心がないようでした。

(その2) これも1970年代前半で、秋のある日の15時、私は仙台市青葉山にある東北大学工学部電気系研究棟の図書室(2階)で研究文献ぶんけんを読んでいました。
そのときのイメージ 2

次第に眠くなりかけたので気分転換にと、エレベータで 8 階建ての電気系研究とう [下註] の屋上に上がりました。(当時は自由に屋上に上がれました。) ふと、真上を見ると、満月の直径くらいの大きさの銀色をした円形の物体が南方向にゆっくり移動しています。 西日を浴びた側は明るく反射していて、反対側は黒ずんでいます。碁石ごいしを斜めに傾けた形でしょうか、 表面は何もなくなめらかで綺麗きれいです。 「あっ。空飛ぶ円盤だ。」と思いました。ここは定期旅客航空路の羽田~千歳線になっていますので、千歳発羽田着の日本航空機なのではないか、とよーく見ましたが、つばさなどが見当たりません。 まったくの無音ですが、音楽が流れてきそうな雰囲気ふんいきです。南の中空に消えるまで平和な気持ちで見ていました。何だろ。???
(クリックすると拡大します)
東北大学工学部電気情報系研究棟
2000年12月3日(日)撮影
2011年3月11日の東日本大震災で
立入り禁止になっています。

翌年に取り壊された後、新棟が
建設され、2014年に竣工しました。


    このあとぐに3階の柴田幸男研究室に行き、大学院同級の 横尾邦義氏(現在、東北大学電気通信研究所名誉教授)(その2)に話すと、彼は淡々たんたんと「僕もさっき西の空に見たよ。」と言います。何度聞いても、詳しくは言わないけれど、「本当に見た。」と言う。 今度は、こっちが呆気あっけに取られたのですよ。
    れた晩秋の西空によい明星みょうじょう(金星)がギラギラと輝いているのにもビクつく帰り道でした。

    なお、昼間の UFO の写真撮影の例がこちら class_matesにあります。

[註]  電気系研究棟は2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災で大きく被災し立ち入り禁止になりました。 翌年に取り壊された後、新棟が建設され、2014年に竣工しました。



(3) 1970年頃から1985年頃の間に私は UFO にねらわれたり追われる夢をよく見ました。 その夢では、雷雨がおそってくることと重なることもあります。 それをけるため、ビルの中にげ込んだり、道路わきの大きな側溝そっこうの中に潜もぐり込んだりんだり、夜の自宅にいる場合はあわてて雨戸を閉めたり、時には、夜空に光と音を発しながら低空飛行をして明らかにこちらの様子をうかがいながら近づいて来る、 というように、夢の中でこわい思いをしてきました。
    UFO の怖さとは別に、同時期に、興味津々きょうみしんしんの宇宙の夢も見ました。 例えば、気付くと、ここは地球ではない。地図が地球と全く違うのだ。 真夜中にこの星の原っぱに仰向あおむけになって真っ暗な夜空をながめている。 上空におびただしい光が同じ方向に帯になって規則正しく走っている。その光の帯が縦横斜たてよこななめに何列もある。 それは、高速道路を空に浮かべたようなものだった。そう、この星では地球に相当する車が夜空の空中を移動しているのだ。
    また、別の夢では、この星の夜の高台に立ってはるかかなたの地平線を見ていると、こちら側は天気が良いのだが、はるか向こうに巨大な積乱雲があるらしく、猛烈な稲光いなびかり間断かんだんなく走っている。遠いので雷鳴は聞こえない。ああ、この星は地球より大きいので、雷雨が猛烈なのだろう。
    また別の夢では、この星のある住宅内にいて雷雨の外を窓越しに見ていると、 庭にもビリビリと地面から空に向かって何本ものまばゆいストリーマーが走っている。「これに当たったら即死だろうな、この星の雷雨は大変だ。」と思いました。
    2000年を越えてからは、私が年を取ったためか、滅多めったに UFO の夢を見ることはなくなりました。普通の夢は若いときと同じようによく見ます。

    2010年頃に、あるテレビ局の特集で取り上げるまで私は知りませんでしたが、我が国における最も信頼性の高い UFO 事件として、1975年2月のの 山梨 UFO 事件その2その3その4その5その6その7) があります。 さらに、これに関した YouTube が次のようにあります。 山梨 UFO 事件の YouTubeその2その3その4その5)。 その後、当事者だった2人の少年が50歳くらいになったときも、あるテレビ局の特集として報道されています。真に迫っていました。その様子が上記最初の YouTube の後半にあります。
    この事件の他に、信憑しんぴょう性のありそうな UFO 遭遇そうぐう事例として、1985年の 水産庁海洋調査船 開洋丸 UFO遭遇事件、そして、1986年の 日本航空貨物便 UFO遭遇事件があり、当時のテレビニュースを私も見ていました。



(4) 2015年7月22日(水)に私が開設している 別のページ「北海道でヤマビルを見た」の中のある粟又の滝(千葉県) の画像をつぶさに見ていたとき、左上に小さな黒丸があるのに気付いたのです。 それが下の画像です。一番左が「粟又の滝」の全体写真で、子供たち数人が遊んでいます。その写真の左上に1つの小さな黒丸が写っています。 左から2番目はその黒丸を8倍に拡大したものです。左から3番目は、一番左の写真の明るさとコントラストを 画像処理ソフト Microsoft Office Picture Manager を用いて変えてみた画像で、 左から4番目はその画像の左上にある小さな黒丸を8倍に拡大したものです。 さらに5番目の画像は3番目の画像の明るさとコントラストを変えてみたもので、その画像の左上にある小さな黒丸を8倍に拡大したものが一番右の画像です。実際の映像と仮定すると、輪郭のボケ具合がシャープ過ぎます。よって、これは何かのシミと考えるのが自然です。
    が、あえてこれを拡大して見ます。 拡大した黒丸の画像を見ますと、内部が分割された構造に見えます。 これは何でしょうかね? ホコリやシミなどが偶然UFOに見えるのでしょうね。?? ただし、明るさやコントラストの調整加減によって、構造体も変わって見えます。
    なお、滝の方向はほぼ真南なので、この元の写真は逆光で撮影されています。 よって、もしこれが本当に何かの物体ならば、太陽から見て物体の裏側を見ていることになります。


(クリックすると拡大でご覧なれます)
左上の小さな黒丸を拡大
粟又の滝

左上の小さな黒丸を拡大
明るさとコントラストを
変えてみました。
左上の小さな黒丸を拡大
さらに明るさとコントラスト
を変えてみました。
千葉県養老渓谷の粟又の滝にて    1965年8月1日(日)午前11時頃


(クリックすると拡大します)
参考までに、上中の黒丸の画像と同じサイズ、
同じ明るさ、同じコントラストで
抽出した滝の下で遊んでいる子供の1人

1965年8月1日(日)

    参考までに、上の一番左の風景全体の中の、滝の下で遊んでいる1人の子供の画像を抽出して、 上中の拡大された黒丸の画像と同じサイズ、同じ明るさ、同じコントラストになるようにしたものを左に示します。
    もし、黒丸のものが実在するとすれば、距離感が分からないので明確な比較はできませんが、子供の上半身程度の大きさのモノであることになり、現実的ではないように見えます。ということは、この黒丸は何かの写真の汚点かキズの可能性が高いと言えます。


    話を元に戻して、画像修正ソフト Paint Shop Pro 9 により、 上左の拡大された黒丸の画像のコントラストとフォーカスを再調整して得られたものが下に示す一番左の画像です。 その画像をもとに、さらにフォーカスを次第に強めてきたものが右の2つです。 最後に、下の最も左にある図の明るさとコントラストの双方を再調整して得られたものが下の最も右に示す図です。

(クリックすると拡大します)
画像修正ソフト Paint Shop Pro 9
調整して得られた図

    思い直してよく見ると、もし、これが空中に浮かぶ物体であるならば、物体周辺のボヤケ具合と周辺の景色の木々のボヤケ具合を比較して、この物体はかなり近距離にあることになるようです。ということは、この物体は、高々、直径 1 メートル以下、いやもっと小さな物ということになり、UFOと考えるには違和感があります。

    やっぱり、これはレンズ近くを飛んでいる虫、または、写真作成の定着または現像の時に出来た何らかのシミ、と考えるのが妥当と言えそうです。???
(クリックすると拡大します)
清澄山
本堂から木魚に合わせて大勢のお坊さん
の読経の合唱が山中に響いていました。
特別な修行でもあったのでしょうか。

1965年8月1日(日)夕方

    上記の粟又の滝を撮影した数時間後、猛暑の中の山道を徒歩で南下しているときに、親切な方の車の乗せて頂いて清澄寺にやって来ました。このときの写真が右図です。 ご覧のように、千年杉の左脇に光の柱が写っています。これは何でしょう? カメラの隙間から漏れた夕日のハレーションのせいだとして気にしていませんでした。 撮影したカメラは1953年に父がボーナスをはたいて買ったキャノンの高級機種でした。ただし、機種と型名は記憶にありません。

(クリックにて拡大)
   
国道48号線の
旧・関山トンネル

(未舗装・山形県側)
標高620メートル
1965年10月3日(日)
15時50分

今は廃道となって
アクセス困難




    私は1955年から1943年まで父から借りて使っていて、私の分だけで1000枚くらい撮影しています。 が、右図のような光漏れは、他にもう一枚あるだけで、それ以外は正常でした。 他のもう一枚というのは、左図の山形県と宮城県の県境にある旧・関山トンネル(国道48号線)の山形県側で夕方に撮影したものです。ご参考まで。



イメージ
(5) 1980年代に私がある国立学校に勤務していた頃、学生寮の宿直当番をしていた夜7時半の頃です。寮の食堂で寮生の点呼を取った後、三々五々、各部屋に戻るために食堂から外に出るのですが、連れ立って歩いていた学生の1人が私に「先生。先生は UFO を見たことがありますか?」と訊くので「ないなあ。」と答えてから学生に「君は見たことがあるのか?」と聞くと、学生は「見たことがあります。この間、夜にこの場所の真上で、ヒュンヒュンヒュンという感じで何か光る星のようなものが高速で上下左右にジグザグに動いているのを見ましたよ。」。私が「本当か?」と聞き返すと、「ええ、本当です。嘘じゃないです。」と真顔で答えるのです。私が「怖くなかったのか?」と聞くと「怖くはないけれど、何だろうなあ、と思いながら見ていました。」と言うのです。学生が見たというその状況をイメージ図に描いてみました。



(6) 私が0歳の1942年(昭和17年)から1943年頃でしょうか、第2次世界大戦中で住宅地の夜は真っ暗です。ある夜に、日本石油(株)本田ほんでん社宅(兵庫県尼崎市西字本田にしあざほんでん31番地)の自宅から母が私を背中におぶって父と共に外出しました。私は母の背中から顔を仰向あおむけに真っ暗な空を見上げていました。すると、前後左右にれている1個の白い点が目に入り、「あれは何? こわいなあ」と赤子心あかごごころに焼き付いて、後年、時々、それを思い出し、76年経った今(2018年)でもその情景が思い出されのです。0歳にして空が怖くなった訳です。
    母が歩くたびに背中の私が揺れて、星が揺れて見えたのかもしれません。そうだとしたら、生まれて初めて星を見た記憶になりますね。

    参考までに、母の背中から私が何かを見たという記憶はもう一つあります。父母が故郷の新潟県に里帰りしたある日の日中、母の実家のある新潟県中頚城なかくびき大瀁おおぶけ村(現・上越市)から、隣村となりむらの父の実家のある新潟県中頚城郡保倉ほくら村(現・上越市)に向かって歩き、村と村との境の保倉川にかる木製の大きな橋を渡りました。母におぶさっていた0歳の私は、この如何いかにも日本の田舎いなかの風景に、赤子心あかごごころに感動した記憶をもっています。恐らく、結婚して2年目の母は、れない父の実家に向かうのに、緊張きんちょう緊張していたのでしょう。そして、それが背中におんぶされている赤子の私に伝わったのだと思います。

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27.   宇宙人の遺伝子や形態について(想像)

(1) 宇宙生物と宇宙人の遺伝子(想像)
   地球上のあらゆる生物 (ウィルスからバクテリア、植物、動物まで) の遺伝子は DNA および RNA からなり、その発現があらゆる生物で共通なので、地球上の生物は共通の祖先 (ウィルスまたはそれ以前のアミノ酸のようなもの?) から出発して発展、分化をしてきた、と言われています。が、本当でしょうか? 私はハタと考えました。
   地球ができてから46億年。この気の遠くなる長い間、原子分子の化学変化によってアミノ酸、タンパク質に至るまで、膨大な種類の化学物質が合成されてきたでしょう。それらの合成はことごとく全くの偶然の産物です。時には、隕石の落下に伴うアミノ酸等の有機化合物の侵入もあるでしょう。とにかく、あらゆる可能な化学合成が周囲の環境の制約を受けつつなされてきました。遂には、二重らせんの形態をとり、ブラウン運動(熱振動)等によって自己複製または自己転写ができる機能を持ち、ブラウン運動等によって各種のアミノ酸やタンパク質やホルモンが生成できる超高分子化合物である DNA や RNA が偶然に合成されるに至った、と私は考えます。これが生物の始まりとなった、と私は考えるのです。らせん構造を持ち、転写または複製できる機能を持ち、各種のアミノ酸やタンパク質やホルモンの合成が可能な有機物は、ひょつとして、DNA と RNA 以外にはないのではないか、と私はハタと考えたわけです。もし、あるのならば、現在ある生物とは根本的に異なる方法で生命現象を達成できる生物も存在すると思われますが、そのような生物は存在していませんよね。全ての生物は例外なく DNA と RNA によって生命活動が行われているからです。
   さらに、地球ができてから46億年、DNA や RNA の合成は1度だけではない筈で、何回も何10回も、いや、数えきれない回数、合成されたと考えるのが自然です。このように、たくさんの DNA や RNA が合成されて生物として活動始めたとするならば、それらの生物の起源は1つではなくなります。ということで、地球上の生物の遺伝子が、DNA または RNA で出来ていても、同じ先祖とは限らない、と考える訳です。
    同じことが宇宙全体にも言える訳です。今のところ、特殊な天体を除いて、宇宙の組成、そして、原子分子の形態は地球上に見るものと余り変わらないと考えられています。また、太陽系と同様の形態の星が銀河系内で NASA 等で次々に発見されているほか、確率的な計算によっても膨大な数の太陽系が存在し得ることが分かっています。そのうちの何パーセントが、生命の存在可能な惑星が存在し得ることも確率論の計算で分っています。もし、生命、そして、その具体的実体である生物が存在するのならば、上述から推察されるように、その遺伝子は地球上の生物と同じ DNA と RNA で出来ているに違いありません。もし、そのような生物が存在するとすれば、高等生物である宇宙人も例外ではなくなります。ということで、宇宙人がいるならば、その宇宙人の遺伝子も地球上と同じ DNA と RNA から出来ているに違いない、と私は思った訳です。

(2) 宇宙人の形態(想像)
   つい最近(2017年)、アメリカ合衆国の国防省から、また、イギリスの空軍から、UFO の目撃事例、UFO への空軍機の緊急発進および攻撃の事例、等の秘密文書の一部が解除され、公開に至りました。それを受けてか、各テレビ局で UFO 特集を放映するようになりました。ガセネタも多くありますが、中には、考えさせられるものもあり、「本当かなあ」と思う反面、「本当かも知れない。本当だったら面白いな。」と期待もあります。マスコミを通じて、また、人づてに多くの事例を見聞するにつれ、上記 (1) の議論をも踏まえて、宇宙人について次のように想像するように至りました。
(i) 宇宙人の住む惑星の多くは地球より大きいのではないか。
(ii) 従って、重力も大きいので、宇宙人の身長は低いのではないか。
(iii) また、大きな重力に打ち勝つために、骨と筋肉が発達しているのではないか。例えば、骨密度が高いとか。
(iv) 大きな重力に耐えるために、赤ん坊は、いわゆる鳥の卵のように殻に守られて誕生することもあり得るのではないか。
   しかし、UFO が宇宙人の乗る宇宙機であるとすれば、宇宙人が存在するかもしれない惑星から地球に到達するまで、近くても光の速度で何10年、何100年もかかるその距離を、どのように到達できるのかが、非常に不思議なことです。

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28.   阪神パークの劇場で「♪・・・すみれの花 く頃・・・♪♪」

    2018年5月20日(日)のテレビ報道で、昨夜、宝塚出身の女優・ 朝丘雪路さんが4月27日にお亡くなりになっていた、と報じました。アルツハイマー型認知症で闘病しておられた由。82歳。
    私が昭和27年(1952年)のお正月に、兵庫県西宮市の甲子園球場の向かいに当時あった阪神パーク の劇場の満員の観客席で、近所のお友達と一緒に児童向けのお正月お楽しみ会みたいなもよおし物を観ていました。その最後の演目として、司会者が、「さて、皆さん、最後に、宝塚歌劇のお姉さまがたの歌とおどをお楽しみください。」と言ってすぐに、かの有名な宝塚の看板かんばんといえる「すみれの花咲く頃」の歌を、ホール全体にひびきわたるみ切った、高音に美しくびる歌を歌いながら、物凄ものすご綺麗きれいな1人の若いスッと背の高いお姉さまが舞台のそでから出てきました。それに続いて数人のお姉さまたちも踊りながら歌に加わりました。
    そのとき、私は兵庫県尼崎あまがさき市立大庄おおしょう小学校3年1組の生徒でした。このお姉さまの歌の美しさにビックリし、こんなに感動したことは生まれて初めてでした。子供時代、その後しばらく忘れていましたが、30歳を過ぎた頃から、時々、その当時の感動を思い出していました。あのお姉さまは誰だったのだろうかと。そして、あの歌は素晴らしかったなあ、今はどうして居られるのだろうかと思っていました。宝塚出身のお姉さま方は数多く居られるようなので分からないままでした。
    今回の報道で、朝丘雪路さんの最初のデビューが1952年と分かり、あのお姉さまを観戦した年と一致しますので、あのお姉さまは、最もお若かった頃の朝丘雪路さんだったのかも知れない、と一人ひとり納得なっとくしています。そうでないかも知れません。

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29.   花火工場の大爆発

    私が小学校2年か3年の頃でしょうかね。1950年か1951年(昭和25年か26年)の頃です。兵庫県尼崎市西字本田にしあざほんでん31番地の日本石油(株)本田社宅に住んでいました。ある日曜日の未だ眠っている早朝、突然、「ドーーン」という物すごい爆発音に目が覚めました。父母も同様に飛び起きました。ラジオのニュースで、花火工場が爆発したことを知りました。好奇心旺盛おうせいの私は1人で武庫むこ川の堤防の上の道を歩いて北上し、阪神新国道(国道2号線)を越えて、東海道本線の鉄橋まであと少しという所の田園地帯の堤防下の現場に3、40分かかって辿たどり着きました。50メートル四方の工場がメチャメチャにこわれていました。しばらく堤防の上からそれをじっと見下ろしてながめていました。鎮火ちんかしたあとなので、消防車も人も誰もいません。少年の私1人しか居なかったのが不思議でした。堤防の道を歩いて自宅に戻り、父に報告しました。日曜日で従業員は居らず、人的損害は無かったようです。
    この辺りでは、武庫川の夏の花火大会は有名でした。これに使用した花火はあの工場で作られたものに相違ありません。

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30.   橋の下のバラック

    私が兵庫ひようご尼崎あまがさき市立大庄おおしょう小学校2年の1950年(昭和25年)の初夏に私と父母と妹の一家4人で武庫川むこがわの川岸に、母が作ったお弁当を持ってピクニックに行きました。 当時の武庫川は黒松の林があって、川岸は白砂で、河川敷かせんじきの土手は芝生でした。私は川の中で水泳用のふんどし姿で遊んだあと、その芝生でお昼を食べたのです(現在は、洪水対策のため、川は深く掘り起こされ、川全体が満々とした水で満たされて砂岸は消え、黒松の林もなくなり、当時の風情は全くありません)。帰り道、阪神旧国道(国道2号線の旧道で歴史的な山陽道に当たる)の武庫川大橋を渡りました。この橋は鉄骨コンクリート作りですが、鉄製の欄干らんかんの足元に雨水抜きの穴が所々に開いていました。小学2年の私は歩きながら、何気なにげなく、橋のはしっこにまっていた砂をくつで寄せては穴に流して、河川敷に落としていました。突然、父が「橋の下で誰かが怒ってこちらに向かってさけんでいるよ」と言うので、私が下を見ますと、見知らぬおばさんがこちらを見上げながら、本当に怒ったように何か叫んでいます。私は何のことかが分からず、坦々たんたんと父母に従って橋を渡り切った訳です。その時、分かったのです。あのおばさんが怒っている理由が。橋の下に掘立ほったて小屋があって、そこにあのおばさんが住んでいたのです。私が穴から落とした砂が掘立小屋にかかったのだと。悪いことをしたな、と時々思い出します。なお、父は、おばさんが怒っている理由を分からずじまいでしたよ。
    当時は、日本が敗戦してから5年しか経っておらず、バラックやスラム街も多くあり、ボロをまとった貧しい人々も多数いました。雨風をしのげる橋の下もバラックを建てて住む人が多かったのです。 return

(クリックすると拡大します)
(参考)武庫川遊園地
ピクニックをした対岸
当時は白砂の美しい河原でした
が、今は洪水対策のため浚渫しゅんせつ
されました。
阪神旧国道
この先に武庫川大橋があります
上の3枚の写真は1999年11月10日(水)に撮影


31.   家庭科の先生にほめられた

    1954年(昭和29年)、私が仙台市立八幡はちまん小学校2年7組の家庭科のお裁縫さいほうの授業で、ある日、刺繍ししゅうを習っていました。戦後10年もたたない小学校の高学年には、当時、男も女も一緒に家庭科の授業でお裁縫も編み物もやらされていました。刺繍をしていると、非常勤の恰幅のよいお裁縫専門の女の先生が、刺繍をしている生徒たちを巡回していましたが、僕の机の前にくると、ヒタッと止まって、僕が刺繍をしているのをじっと見ているのです。そして先生が大声で、「あなたっ。上手じょうずねえ。女の子より上手うまいわよ。」と感心しているのですよ。内心、ずかしくもうれしかったなあ。
    当時、私の手の指は細くて繊細せんさいでした。さらに、生まれつき、手先が器用なことと、家でも母から教わっていたのが功を奏したのでしょう。手の指が太くなった20歳以降は、当時のようには行かなくなりました。お裁縫は、指が繊細なことが必要条件のようです。

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32.   級友と化石取りに行った

    1954年(昭和29年)、私が仙台市立八幡小学校5年7組にいたときに、クラスの誰かが二枚貝の立派な化石数個を持ってきました。私は非常にビックリして、「えっ。この化石、どこで見つけたの?」とくと、「八幡神社の裏側で採ってきた。」と言うので、家に帰ってから、母と一緒に化石を見つけに行ったのですが、その場所は分かりませんでした。その後、いろいろな人から「井戸を掘れば、必ず化石が出てくる。」とか聞き、仙台の地下やがけからいくらでも新生代第三期の貝の化石が見付かることが分かって来ました。前年まで、関西に居たときには、化石の「か」の字も聞いたことがなかったので、ここ、仙台に来て初めて貝の化石を級友から見せられたときは衝撃でした。
    翌年1955年(昭和30年)、私は東北大学教育学部附属小学校中島丁校舎6年1組に転校しました。理科の時間に、アンモナイトなどの化石の授業があって、隣の席の木村君に仙台の化石について聞いてみました。木村君が「じゃあ、一緒に化石採りに行こう。」と誘って下さいました。予定した大型連休の晴天のある日の朝、私と木村君が広瀬川畔にある三居沢さんきょざわ発電所で落ち合い、木村君の案内に従って、広瀬川南岸の山中を西に向かって歩いて越えて行きます。はるか北側の対岸の崖にかかる作並街道(国道48号線)を馬車の鉄輪が砂利を踏むかすかな「カラカラカラ・・・・・」と長く続く音を心地よく耳にしながら、若葉の山道を歩いて行きます。ずっと後ろから誰か男の人が1人歩いて来る姿をチラッと見たときは、子供心にちょっと怖かった。が、そのうちその人影はなくなりました。昼近くになって、やっと山が開けて盆地の様な所に出ました。 そこは宮城県宮城郡宮城村の郷六ごうろく部落でした。広く起伏のある田んぼに点々と農家があり、牛の鳴き声も聞こえてきます。田んぼのあぜ道に木村君がスカンポ(スイバ)を見つけ、大きな葉を取ってくきをかじるように言われ、かじると、ほのかな酸味のある汁が口いっぱいに広がって、美味おいしいこと、美味しいこと。歩きながら、たくさん口にしました。生まれて初めてのスカンポでした。昨年の八幡小学校5年の音楽の時間に習った「土手どてのスカンポ、ジャワ更紗さらさ。昼はホタルがねんねする。・・・」の歌を思い出しました。土手の上で木村君と並んで、母が作ってくれたお弁当を美味しく食べました。そして、広瀬川が急カーブを描いて山すそにぶつかって崖を成している所にたどり着きました。ここは三居沢発電所の取水口のある所です。少し急流だが浅い川を渡って、その崖をよじ登りました。何と、大きな貝の化石がびっしりと目の前に現れたのです。初めて見る化石露出ろしゅつの現場でした。木村君、共々、持って来たハンマーとノミで沢山の貝の化石を掘り出しました。ハマグリみたいなもの、ホタテみたいなものの表面に糸ミミズみたいなかたまりの珍しいと思われるものも掘り出しました。これらは今も持っています。どこかに保管したままですが。岩体は砂岩ですが、貝殻かいがらの石灰が残っているものもあります。帰途も来た道を戻りました。
    木村君、本当に有難うございました。 return

(クリックすると拡大します)
山居沢発電所・取水地の対岸
にある崖で化石を取りました
お弁当やスカンポを
食べて休憩した土手
ホタテ貝の殻
と糸ミミズ状
の環形動物の
化石
化石産地の仙台市郷六
右2枚は1991年12月15日に、左は1970年頃に撮影


33.   仙台でのスケート

    1955年(昭和30年)の冬、私が仙台市立八幡小学校5年でしたが、友達に聞いて、藤崎デパートで両親にスケートを買ってもらいました。このスケートは長靴にバンドで締めて装着する簡素な物ですが、本格的なフィギュアスケートに似ていました。たまたま、私の住んでいる社宅が郊外のバス通り近くで、未舗装ですが雪が降ってバスが踏みしめると、アイスバーン状態になります。そこをスケートで滑って遊ぶのです。勿論、生まれて初めてのスケートですが、ぐに上達して、友達から「山本君、上手うまいんだっちゃ。」と言われるようになっていました。当時、バス以外の車はほとんどありませんでしたから、道路はスケートの練習に最適でした。
    翌年、1956年(昭和31年)の冬、私が東北大学教育学部附属小学校6年の時、前年と同じように路上でスケートを楽しんでいました。たまたま、附属小学校6年1組の同級生がこれを見て、阿部君、木村君、川崎君、尾形君、高橋君らが大挙して、それぞれスケート靴を持って来て、ここから北2キロの山の中にある沼まで一緒に歩いて来ました。そこは、国鉄仙山線の直ぐ北の山中で、その沼はこおっていて、すでに、30人くらいの子供や大人がスケートをしていたのです。氷の厚さはたった5センチくらいでしょうか。以外に割れないもんですね。天然氷を皆で思う存分すべったものです。楽しかったなあ。
    あれから65年、この沼も住宅団地になって、当時のようなスケートは出来ません。ちなみに、仙台市の五色沼は我国のスケート発祥の地となっております。今の五色沼はスケート不可です。

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スケートを楽しんだ級友
1956年3月
東北大学教育学部付属
小学校中島丁校舎
校庭の樫の木の下
私は右端
今は宮城県立宮城
第一女子高校の敷地

もし支障がありますれば
ご連絡ください。
削除いたします。


JR仙山線沿線から北を見る
西岸の団地側から見る
級友とスケートを楽しんだ山の中の沼
1991年12月15日撮影









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手稲中学校の運動会での仮装大会
私たち2年B組の出し物は「海賊船かいぞくせん

(1956年7月) 父(山本弘)が写す。
愉快な仲間達と矢印の私
34.   中2の愉快な仲間達

    1857年(昭和32年)4月から私は北海道札幌郡手稲町(人口1万4千人)の町立手稲中学校2年B組の生徒でした。担任は体育と音楽が得意の佐久間先生。このクラスの男子は面白い級友ばかりで、学校帰りはいつも私と一緒でした。浅見君、住吉君、太田君、成田君、佐々木君、田中君・・・。皆、ワイワイガヤガヤと毎日、学校帰りは一緒でした。私は聞き役でした。この時の主なトピックスを以下につづって見ます。

    (1)   畑で縄文時代の遺物を採集
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畑で採取した黒曜石のナイフ
黒光りする物が黒曜石です

1965年頃に撮影
北海道の縄文土器も多数
    通学路に接した畑に誰かが縄文時代の土器を見つけると、皆でワイワイと畑に入って行って、めいめい、遺物を探したことが何回かありました。私も土器の破片のほか、黒曜石こくようせきのナイフも見つかり、今も持っています。ビックリすることに、北海道の畑では、縄文時代の遺物が簡単にたくさん見つかるのですよ。特に、本州では滅多に見つからない黒曜石が。今はどうかなあ。

    (2)   畑で大根を生噛なまかじ
    ある日、通学路に接した畑に実っていた大根を見た仲間の1人が、大根を引き抜いて美味しそうに食べ始めたのです。私も真似をして大根を引き抜いて噛ってしまいました。甘くて美味しかった。北海道の畑は余りにも広いので、1本や2本、いや、10本、20本の大根ごときはほとんど農家の人には影響がないのですよ。

    (3)   芝栗しばぐり生噛なまかじ
    ある放課後に、いつもの仲間たちと学校裏の芝栗の林に、芝栗を食べに行きました。この林は自然林と思っていたのです。外のイガを取り、爪でシブをはがし、栗の実をコリコリと歯でんで音を立てて生で食べるのです。これが非常に美味しいのです。しばしあって、突然、「コラーッ」と怒鳴どなり声が聞こえたので、皆、
    に逃げたのです。この林は持ち主がいたようです。

    (4)   おっさんが自分の男器を皆に見せびらかす
    ある学校帰りの日、皆でワイワイガヤガヤとおしゃべりしながら帰途きとについていると、広い畑の中から、1人の見知らぬおっさんが私達に興味を持ったのでしょう、私達にいろいろ話し掛けてきました。そのうち、卑猥ひわいな話になって盛り上がり、いきなり、おっさんが「これが『だんべ』だべさ」と言って、自分の男性器を取り出して私達に見せびらかしたのですよ。すごく大きかったなあ。

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35.   プールにハリガネムシ

    私は中学1年の1955年(昭和30年)6月に、仙台市内の中学校から北海道札幌郡手稲町(現 札幌市手稲区)の手稲中学校に転校になりました。翌年、2年生になった夏に、何と、この学校にプールが出来たのです。簡易プールです。北海道の、当時の人口1万4千人しかいない田舎いなか町の小さな中学校です。プールの水は、多分、山水やまみずを引いてきたのでしょう。もしくは、井戸水をみ上げたのかも知れません。当時の手稲町には水道はありません。すごく冷たい水です。それでも、水泳好きの猛者もさは泳いでいました。
    ある日、教室で同級生が直径1ミリで長さ10センチ以上の白くて固い線虫を固く結んで机の上に置いておくと、線虫がみずから結び目をほどいくのです。同級生はそれをながめて楽しんでいるのです。私はビックリして、同級生に「これ、何ていう虫? どこで見つけたの?」と聞くと、彼は「ハリガネムシと言って、プールに沢山たくさん、泳いでいるよ。」と教えてくれました。確かに、固さといい、見栄みばえといい、針金そっくりです。
    それで、私もプールに行くと、ハリガネムシが一杯いっぱい泳いでいるではありませんか。1匹を捕まえて、教室の机に戻り、固結びで結んで机の上に放置し、授業を受けながらながめていました。成程なるほど、すごい虫だ。ゆっくりだが、確実に結び目を自分でほどいて行くのです。これには感心しきり。
    私が大人になってから知ったのですが、この線虫、カマキリの腹に寄生して、十分に育つと、カマキリを水辺に向かわせ、腹から水中に飛び出すという代物しろものだったのです。すると、プールに泳いでいたハリガネムシは全て、カマキリの腹から飛び出してきた虫だったのだろうか?  ところが、ハリガネムシのこのサイトの最後に、「ハリガネムシが寄生する昆虫が川に落ちるのは、主にゴミムシに寄生する北海道では6-7月頃がピークで、本州では秋である。」と書かれています。イヤハヤ、気味の悪いこと。

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36.   札幌の美人女子生徒

    札幌には、目の美しい美人が多いと言われています。冬の風雪にきたえられた結果かと思われます。
    1958年度(昭和33年度)の私は北海道札幌市立かしわ中学校3年3組にいました。昨年1957年12月に父の社宅が札幌市内の新築の社員アパートに移転したため、私も学校を変わっていました。この3年3君の担任は国語担当の中川康子先生でした。
    このクラスに誰もが認める目の大変綺麗きれいな美人女生徒・〇田△代さんがいました。
(クリックすると拡大します)
柏中学校3年3組の昼食    1958年
美人女子生徒は上左端。
私は下右端の顔だけ。


クラスの男子生徒は皆、ハッキリとした意思表示はしませんが、ひそやかなあこがれれをいだいていました。 特に、彼女と同じ姓を持つ〇田君は、授業中でもチラチラと左方向に座っている彼女をぬすみ見ていました。私も少なからず興味がありました。聞くところによると、札幌市北4条西4丁目(通称4丁目十字街)近くの洋菓子店の社長令嬢とのこと。さらに、彼女と同じ姓の理科の〇田先生も、満面のみを浮かべながら鼻の下を長くして、「〇田さん。いいですか? 素晴らしいですね。」などと彼女に優しく声をかけつつ授業を進めるといった状況なのでした。また、ある日曜日に、クラス内での有志の野球の試合を行った時、いつも徒歩通学の私は荷台のごっついツギだらけの中古自転車で乗り付けて試合に出たのですが、フッと見ると、彼女がその自転車を乗り回していたのです。私の心臓は飛び出るくらい興奮してドキドキと鼓動を打っているのでした。また、秋の摩周湖ましゅうこなどの修学旅行では、車窓の彼女をたまたま撮影してその写真を差し上げると、非常に喜ばれました。また、ある日の放課後のクラス会で、議長をして教壇に立った彼女が私の方を見る訳です。その美しい眼差まなざしに、私は目のやり場に困ってドギマギしものです。

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37.   カッコウ鳥のなまの声

    皆さんはカッコウ鳥の生の鳴き声を聞いたことがありますか? ほとんどの人は聞いたことがないと思います。歌に、また、歩行者用信号の電子音でよく聞くので、生で聞いたことがあるように錯覚するようなのです。
    私は75年の生涯で、北は北海道から南は広島まで、数か所を転々と暮らしてきましたが、生でカッコウ鳥の鳴き声を聞いたのは、たったの1回しかありません。それを次に話します。
    私が北海道立札幌南高校1年の1958年(昭和33年)7月、春の遠足ということで1年3組のクラス全員54名が北隣の手稲町までバスで行き、標高1023メートルの手稲山の麓から頂上まで登山をしました。登山とっても、手稲山山頂にはNHKラジオ送信用アンテナがあり、既に頂上まで車で登れる林道があり、周りの林が疎林でサラサラした感じで明るく、登山は非常に楽でした。周りは人家もなく、静まり返っていました。中腹辺りを登っている時、ふと気付くと、右下方向に見下ろせる林から、カッコー、・・・、カッコー、・・・と15秒おき位の間隔でカッコウ鳥が遠くまで染み渡るように寂しく鳴いているのです。その声をしんみりと30分以上も聞きながら登山を続けたのでした。
    1時間半くらいで頂上に着き、頂上の広場で、クラス全員、「鬼ごっこ」を楽しみました。大阪出身の遠山君と阪神地方に居たことがある私が先ず意気投合したのが切っ掛けでした。この鬼ごっこ、はしゃぎまくって子供時代の再現でした。そして、これが人生最後の鬼ごっこでした。

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38.   高校の同級生が暗殺

    私が北海道立札幌南高校の3年8組の生徒だった1960年(昭和35年)秋、3年5組だったかのクラスにいた山口二矢おとやという生徒が、東京日比谷公会堂の壇上で演説を始めた社会党書記長・浅沼稲次郎氏を刃物で暗殺してしまいました。翌日の朝刊で大々的に報道されて知り、同学年生の仕業ということで非常に驚きました。私は山口二矢を全く知りません。この事件による授業への影響は全くなく、学校としての騒ぎもなく、生徒会からの特段の知らせもありませんでした。私の高校の生徒が起こした大事件にもかかわらず、校内は全く平穏で、この事件について話題にも上らなかったことが、今となっては不思議に思っています。なお、新聞記事では、山口二矢は右翼に加入していたよし
    この事件以降、我国では、現在(2018年7月)に到るまで政治家の暗殺事件はありません。この事件から3年後のアメリカで、ケネディ大統領の暗殺事件が起こります。

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39.   担任の先生の自殺

    私が〇〇高校3年の担任でおられた〇〇先生は当時30歳ごろの物理の先生でした。声が高くて明瞭に話されます。物理の授業は熱心で、普段も大変真面目まじめで明るい先生でした。私は高校卒業後、大学、大学院と進み、就職しました。そして、高校卒業後20年経ったある日の朝刊を見てビックリ。〇〇先生は50歳を過ぎています。「〇〇高校の教諭〇〇が☐☐の歩道橋から、走ってくる車に飛び込み自殺を計って即死。先物取引に失敗し、多額の負債を抱えたのが原因。」と、全国版の3面の10行くらいの小さな記事に載っていました。
    私は「あの真面目な先生が。エエーッ。どうして先物取引に。」と絶句した訳です。遠方なので直接の連絡方法はなく、同級生とも縁が薄く、全国各地に散っていたのでこちらも連絡できず、そのまま現在に至っています。
    あの真面目で明るい物理の先生がなぜ?

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40.   大きな事件・事故と関連すること

    長い人生、大きな事件・事故に関連する事が次のようにありました。なかには、新聞のトップ記事に関することもあります。

    40.1   ある若い女性のこと
    1969年(昭和44年)7月末に核融合懇談会かくゆうごうこんだんかい(現在のプラズマ・核融合学会)の大学院生を中心とした若手研究グループが主催するプラズマ夏の学校に参加するため、前日に私は仙台を急行電車で発ち、上野と新宿で乗り換えて、中央本線の小淵沢こぶちざわ駅に深夜に着きました。この駅前のベンチで一夜を明かし、翌朝、小海線小諸こもろ行き普通列車に乗り、目的地の松原湖駅に向かいました。
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焼岳山頂
穂高岳をバックに(矢印が私)
(参考)プラズマ夏の学校での余暇よか・北アルプス焼岳登山
1966年夏に撮影

この列車、煙突えんとつの長い旧型の小型の蒸気機関車が、古びた木製の客車5両を牽引けんいんしていました。しかも、先頭の小型の蒸気機関車は普通と逆向きに客車に接続してあり、小淵沢駅を出てぐに急こう配の右の急カーブを煙突から真っ黒な煙を勢いよく「シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、・・・」と大きな音を立てて吐きながら、時速20から30キロの遅いスピードで客車を牽引しています。乗客はほぼ登山客を中心とした観光客のようで、ほぼ満員。真夏なので、客車の窓は全て開けっ放しにしています。八ヶ岳のふもとを通る景色に初めてここを訪れた私は興奮していました。
    私のいる車輛の前の方のデッキ付近の若い男女のグループがにぎやかに楽しそうにしゃべっています。皆、私より若そうだ。登山か行楽に行くのでしょう。特に、1人の若い女性が大きな声で楽しそうにその場を支配しています。私はこれまで15年間、北海道と東北にずっと住んでいましたので、このグループの、標準語または東京アクセントの賑やかに喋る光景が非常に珍しく、成程なるほど、東京付近の若者はこういう垢抜あかぬけたものなんだと、妙に感心して聞き入り、一種のあこがれのようなものも感じたものです。距離があったので、グループの顔は全く分からず、何を話しているのかも断片的にしか聞き取れませんが、楽しい気分は十分に伝わってきました。他の乗客も、ほぼ静かにそのお喋りを聞いていたに違いありません。に角、その女性の甲高かんだかい声が印象に残ったものです。
    その後も時々その情景がよみがえるのです。私の考え違いとは思いますが、その後、学生運動が激しくなり、その時フッと思い付いたのですが、活動家のある女性はあの時の若い女性だったのでは、と。もし、そうだとしたら、あの時の幸福そうな若い女性が、どうなってしまったのか、と他事ながら、思い沈む訳です。

    40.2   寿司屋での殺人事件
    私が自転車通勤をしていた1970年代後半の冬のある夜の帰り道、〇〇市の第2工業団地裏のさびしい一角にポツンと質素に立っている貸店舗かしてんぽで営業を始めたお寿司屋があるのに気付き、晩飯をここで食べようと入って行きました。お店の右手に一間いっけんくらいの幅で奥までお座敷になっており、そのお座敷の奥のコタツで若い4人の男女が楽しそうになべを囲みながら談笑しています。その中の一寸、美男子で優しそうだがおしゃべりの男性が場を楽しく盛り上げています。時々、店の主人に「マスター、あれ持って来て。」とか注文しています。私は、長い座敷の入り口のかたわらに座って、上、中、下の中寿司を夕食として食べながら、にぎやかな会の余波よはを楽しんでいました。
    週を置いて、2、 3度、このお店に夕食に来ると、あのグループがコタツを囲んで談笑しながら会食しています。このお店の常連か、または、マスターの親しいお知り合いかと思っていました。4、5度目くらいに夕食に来ると、その常連は居らず、客は私1人となっていました。コタツだけはあのままでした。春になり、自転車で久しぶりにこのお店に夕食に来ました。私はカウンターに座り、いつものお寿司を注文して食べました。お寿司の味は変わりません。しかし、カウンターの前の冷蔵庫となっているガラスケースの中には、寿司の具がほとんどありません。で、何かのにおいに気づきました。私は主人と奥さんに「何か臭いがしますよ。多分、野良のら猫か、野良犬が床下で死んで、それがくさった臭いではないですかね。調べてみた方がいいですよ。」と親切に教えてあげました。主人と奥さんは神妙な顔で僕の話を聞いていました。
    それから1週間後に、またこのお店で食事を取りました。カラスケースの中はほとんど具がありません。それでも、いつものお寿司は調達できて、私は夕食を取ることが出来ました。しかし、あの臭いはより強くなっていました。それで、主人と奥さんに「臭いが前よりきつくなっていますよ。絶対に床下あたりに猫か犬の死体があって腐っているんじゃないかな。本当に調べた方がいいですよ。」と強く言いました。主人と奥さんは黙って聞いていました。帰りがけは、いつものように「有難うございます。」と言ってくれました。
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事件現場
2019年9月14日(土)撮影
撮影時は、夏草に隠されて
いますが、青いポールの下に
供養の石があるはずです。


    その後、通勤が車に変わり、あのお寿司屋さんにはきちんとした駐車場がなかったので、このお寿司屋さんに来ることはありませんでした。で、上記のことはすっかり忘れていました。他に、駐車場があって、おかずが選べる定食屋さんが車通勤の途中にありましたので、その定食屋さんが、ほゞ毎日の夕食の場となっていました。5年位の月日がってから、定食屋さんのご主人と何気ない会話からあのお寿司屋さんの話となりました。このお寿司屋さんは、無くなっていることは私も知っていました。ご主人いわく、「何年か前に、あのお店で殺人事件があったのですよ。通報があったみたいで。新聞にりましたよ。床下から死体が見つかったそうです。」。私は、「へぇー。あ、そうなんですか。ビックリしたなあ。」。咄嗟とっさに、私は、あの臭いはその臭いだったのだ、と心中、納得なっとくしたわけです。その現場に行ってみると、寿司屋だった貸店舗は取りこわされていて、畑になっていました。しかし、その畑の中に、死体が見つかったと思われる所に、50センチ×80センチ位の長方形に木枠きわくをしつらえ、中に四角の石を置き、時々、花がかざられてあります
    あの時から約20年を経た2000年頃、妻と500キロものドライブをした帰り、夜もけて夕食を取るお店が見付からず、大きな森に隣接したある交差点の左折方向100メートルに明るい看板のお寿司屋さんを見つけ、入りました。暖房がよく聞いた新しい店構えのお寿司屋さんです。2階で子供たちがはしゃいでいるらしく、天井越しに子供の足音が聞こえてきます。そういう意味で、明るくよいお店のようです。しかし、初めてのお店なのに、お店の中に入った瞬間から、何か初めてのような気がしないのですよ。それに、暖房のせいもあるのでしょうか、何か脂汗あぶらあせにじむようなあせりを感じました。注文したお寿司を落ち着かない気持ちで食べ終わると、何と、店主のかたがにこやかに「前にお会いしたことがありませんでしたかね。今、どこにお住まいですか?」と私に聞くのですよ。私は店主のお顔に記憶がなく、「ウーン。そうでしたかね? 私は分かりませんねー。」と答えました。お店の雰囲気ふんいきに、何か居ては不味まずい感じを持ったのですが、私は店主の方には本当に記憶がないのです。先方せんぽうがこちらを覚えていると今、聞いて、内心、気が動転し、下着は汗びっしょりです。一応、丁寧ていねい挨拶あいさつして、ほうほうのていで車で帰宅したのでした。

    あの事件のあったお寿司屋さんから南に300メートルの工業団地北端に、当時、普通の住宅の玄関部分をスナックにしたお店がありました。上記の事件の間もなく後に(その時は、未だ、私はお寿司屋さんの事件を知らないでいたのですが・・・)、何と、スナックの女将おかみがお客さんを刺殺した事件もありました。私はそこを通るだけでスナックに入ったことはないのですが、新聞を見て知りました。そのスナックの道路をはさんだ向かい側は、2010年以降、大きな葬祭場となっていて、知人の葬儀に私もその葬祭場を訪れています。

    40.3   トラックが路面電車の停留所へ乗り上げた大事故
    私が運転免許を取得した翌年の1980年頃、私が当時の実家(大阪府高槻市)に車で帰省していました。父が所有する〇〇県〇〇郡〇〇町の山林を見に行くことになり、父母が新幹線を使って、私が車で高速道路を行き、〇〇駅で落ち合うことにしました。その日のうちに落ち合い、父母を車に乗せて〇〇町の山林を見て来ました。帰りも私が車で、両親が新幹線で帰ることになり、〇〇駅に両親を送り、1人になった僕は〇〇市内を通って高速道路のインターチェンジに向かいました。
(クリックすると拡大します)
(参考)
1998年8月12日(水)に暁子様が撮影

夕方の市内は大渋滞。僕の後ろに付いているトラックが初心者マークの付いた私の車をからかっているような運転をしています。大渋滞なので、信号の度に長時間止まります。当時の車は、三段切り替えマニュアル・ギア・チェンジ仕様の中古車なので、その車の運転は大変でした。やっと市の中心の交差点にやって来ました。私をからかっていたトラックは私の車の右隣の路線に来ています。さらにその右側は路面電車の停留場になっています。私の車の左側のレーンと、さらにその左のバス停からは多くのバスが渋滞している車の隙間すきまを突いて割り込んできます。突然、1台のバスが私の車に向かってハンドルを切って来たので、危ない! と思った私は条件反射的にハンドルを左に切って避けたのです。その直後、直前の信号が青に変わったので、スイスイと交差点を通過しました。
    ところが、不思議なことに、私の車に付いてくる車が左右前後、1台もありません。今までの大渋滞がウソのようです。即ち、私1台だけが青信号を通過し、その後、私の車1台だけが2車線の大通りを走っています。なぜ車が来ないんだろうと、不思議な気持ちでスイスイと運転していました。30分後には市内を抜けて高速道路に入り、帰途につきました。
    翌日、実家で新聞の一面を見て驚きました。昨夕、〇〇市内で1台のトラックが路面電車の停留所に突っ込んで、20人もの人が死傷したとのことがっているではありませんか。

    40.4   ゴルフ場拡張中のブルドーザー死亡事故
    1970年代後半に私は茨城県◯◯郡◯◯町のゴルフ場を対岸に見渡せる斜面の山林50坪弱を買いました。5年ローンの総額230万円。ゴルフ場の関連会社がゴルフ場から余った土地を造成して売り出したものの様でした。ゴルフ場と同じ芝生の日当たりのよいきれいな土地で、正面に筑波山が見えます。国道50号線から車で2、3分ほどの便利な所ですが、原野商法だったのかも知れません。それ以来、月に2度ほど、芝生を守るため雑草を抜きに来ていました。当町は調整区域はなく無指定なので上隣には1戸建てが建ちました。
    1980年代に18ホールから36ホールへの拡張工事が行われ、ほゞ完成に近かったのですが、私の土地の対岸で未だ池が造成中でした。作業員がたった1人で、大きなブルドーザーを操作している姿を、私が雑草取りに来る度に見られました。ある日、私が◯◯市の自宅で何気なく新聞の3面記事を見ると、何と、そのゴルフ場で作業をしていた方がブルドーザーの下敷きになって即死したと報じているではありませんか。合掌。
    その後、何事もなかったかのように、ゴルフ客のにぎわいが絶えません。

    40.5   茨城県奥久慈おくくじの不動の滝での遭難そうなん事故
    1987年10月18日のことです。午前、私は車で茨城県北部の奥久慈男体山(大子町だいごまち)の直ぐ南にあって籠岩かごいわふもとにある不動の滝その2)入口の小さな駐車場に車を停めて、徒歩で、牛を飼っている最後の農家を通り過ぎて不動の滝に向かって歩いて行きました。昨日の台風がかなりの雨をもたらしました。今日は晴天です。最初は私一人だったのですが、そのうち、私の前に、修験僧しゅげんそう二人が中年の女性二人を連れて滝の方に歩いているのに追い付き、まもなく、滝に到達しました。落差15メートルから20メートル位でしょうか。普段は細い滝なのですが、昨日の台風のせいか、ゴーゴーと水が落ちています。彼らは滝の向いにある休憩所で休憩した後、修験僧の指示に従って滝の脇の急坂を登って行ってしまいました。
(クリックすると
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(参考)普段の
不動の滝

1985年頃に撮影
彼らの姿が見えなくなった頃、私も急登を試み、滝口にたどり着きました。さて、ここから右に行けばよいのやら、左に行けばよいのやら、迷ってしまいました。彼らはどっちへ行ったのでしょうか。左に行けば、滝へと流れるかなりの水量をたたえた谷川になっていて、その谷川にう道は増水のため消え入るほどのせまさでした。それで、右のよりはっきりとした道らしい道を選んだ訳です。ただ、その道へは、1メートル幅の滝の落ち口を飛び越えなければならず、がけにへばりついての急登が崖のうらに回って先が見えません。が、左側の増水にひるんだ私はこの右側の道を選択したのでした。体をかがめるような姿勢で急登し崖の裏に回り込みました。そこは、より急こう配になっていましたが、登れることが何とか出来そうで、崖の上の方の道らしき所に通じているようにも見えました。あそこまで登れば、あの上の道を右に行けば事が足りる、と判断して、両手も使ってさらに上がって行きました。しかし、「待てよ。これはヤバいかも。」と思い始め、「本当に危ない。」と判断して登るのを止めました。崖の上の方の道は、崖の上の凹凸おうとつ縞模様しまもようによる目の錯覚さっかくと判断しました。
    登っている時はつんいで分からなかったのですが、下りようと体を反転した時、傾斜がきつくて普通に下りれば、即、滑落による転落死を意味しています。幅1メートル足らずの道の傾斜は35度から40度。道の右側は山のはるか上まで垂直の壁ふさがれ、左は垂直の崖となって谷底に落ちています。谷底は全く見えません。草木はほとんなく、たまに左下の崖から太さ10センチ程度の木の枝が道の方にかぶっている程度です。下ろうとしているその道は10メートル先で直角に右に曲がっており、曲がりそこねると崖下に転落です。道にしりを付けて座り、20分位、気持ちを落ち着かせてどのように下りようかと思案していました。右足の先を、右の壁と道の境目の突起とっきしている岩の出っ張りに引っ掛けて、右手も壁の突起に引っ掛けて、すべり台をゆっくり下りるように、お尻を道につけて少しづつ滑らせながら、ゆっくりと下って行きました。左下の崖の途中に何本かの松が生えているのを見て、もしも左下の崖に転落した時に備えて、あの木につかまろうと考えながら、ズズッ、ズズッとお尻をりながら、少しづつ滑り下りました。10メートル先の右カーブも無事に通り過ぎ、さらに10メートル以上を滑り降り、やっと、滝の上にたどり着き、九死に一生を得たような気持ちになりました。
    そして、最初に迷ったもう一つの道、即ち、増水した谷川に接して細くなった道を登ることにしました。こちらの道が正解でした。途中、垂直の崖を横切る道がたった30センチの幅しかなく、くさりにしがみついて行く危険な所もありましたが、籠岩かごいわの下を通ってやっと展望台に着きました。これで今回の小さな目的は達成された訳です。そして、そこから安全な道を大きくまわって降り、駐車場にたどり着きました。さて、帰途につこうかと思いながらズボンのお尻の左側ポケットに左手を入れた時、アッ、あるはずの3万円のお札が無いではないか。瞬間しゃんかん、顔が青くなりました。当時の1週間の生活費です。さあ大変。恐らく、急坂をゆっくりと滑り下りる時に、お尻のポケットからお札が出てしまったのです。
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修行僧がいます
 
 
滝口に向かって
登ります。上の段
の滝が現れました
滝の下を見ると、
行楽客がいます
 
向かいの山を望む(北方向)
地質学的な大断層線の跡で断崖が続く
左が男体山、裏に袋田の滝があります
滝口に登り着くと
さらに上の段の滝が
 
滝口から滝が落下
怖い
 
この先、滝口で迷いました
間違えた左方向は崖上の
急登となりました
茨城県奥久慈の不動の滝
台風の翌日なので水量がすごい

1987年10月18日午前
午前中、滝周辺は日陰になっています

    午後になってしまいましたが、再度、不動の滝に来ると、午前中は暗かった滝周辺を午後の日差しが照らすようになっていました。で、滝の左手の崖を、再度、滝口に登り、危険な右の道を四つん這いで登りました。2度目で要領をつかんでいましたので、それ程の困難は感じません。上記のように下りる時は右カーブだったのですが、登る時は左カーブなので、そこを曲がって少し登ると、有りました、有りました、1万円札3枚が道に散らばっているのです。ホッとして回収し、前と同じ要領で慎重にお尻を道に付けてゆっくり滑りながら下りた訳です。滝下から谷川沿いの牛を飼っている農家を通って、駐車場に戻りました。イヤー、恐ろしかった。解放感もたまりませんでした。
    この続きが恐ろしいのです。
    約1か月後、〇〇衆議院議員の弟さんが茨城県久慈くじ大子だいご町での会合を終えた後、ひまが出来たのでしょう、この不動の滝に来られたそうです。学生時代は山岳部員でおられたよしですが、当日は登山装備をしていなかったとか。滝口から、私と同じように間違った道を急登したらしく、行方不明になりました。新聞、テレビで報道されました。2,3日間、ヘリコプターも出動して捜索そうさくしても発見されません。それは、谷が狭くて深くてヘリコプターからは見えなかったのです。3日目に、やっと、谷川の隠れた崖下で転落死していたのが見つかりました
    「山と渓谷」誌に、この年の全国の遭難記録の茨城県の項には、この1件が記録されています。しかし、2017年時点では、この遭難はインターネットの検索にはかからなくなっています。
    この遭難事件をもって、滝の上の右側の迷い道は、滝口で鋼鉄の柵によって頑丈がんじょう封鎖ふうさされています。
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籠岩への正しい道
なお、間違えた道の
写真を撮る余裕はあ
りませんでした
午後になって
水量が減りました
 
 
不動の滝の左側の崖
間違えた方向を進むとこの崖の上に出て、
どうすることもできません。
転落遭難現場は、この左下の谷底でした。
午後の不動の滝周辺
1987年10月18日午後
午後には滝周辺に日が差しました

(註)この不動の滝は国土地理院の地形図に記載がありません。が、危険な崖は地形図に表示されています。

    上記とは全く関係ありませんが、非常に奇妙な山の遭難と言えば、ソ連(現・ロシア)のウラル山脈での ディアトロフ峠事件その2)があります。学生9人の奇妙な犠牲者が出たのですが、全く解明されないまま数十年後にロシアが、過酷な自然現象によるもの、として幕引きをはかっています。

    40.6   山火事に遭遇
    1997年3月のある休日、私が茨城県西茨城郡七会ななかい村(現 城里町しろさとまち)の広大な低山の山林内の林道をドライブしていました。行き交う他の車は全くありません。突然、数機のヘリコプターが車の右後方から左前方(東南方向)に飛来してきて、大量の消火剤をいています。山火事です。炎は見えず、少し煙が見える程度ですが、距離は近そうです。この辺りは無人地帯です。後日、来てみると、杉林が真っ黒でした。
    この七会村は、当時、村長選挙に関連して殺人事件が起きています。これと関係あるかどうかは分かりません。
    さらにこの頃、大鷲おおわしが1羽、飛来して来て、少しの間、住み着いたような様子で話題になっていました。
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右後からヘリコプターが飛来
左前(南東)に進みます
大量の消火剤を撒きました
1997年3月

    40.7   伊勢湾フェリーの甲板かんぱんでグリコ・森永事件の犯人に遭遇そうぐう
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三重県鳥羽とば港を出港
デッキにて(私)
伊勢湾フェリー    2009年3月撮影


    グリコ・森永事件が迷宮入りになり、世間から忘れ去られようとしている1986年~1990年頃だったかな(?)、私は当時、実家があった三重県志摩郡阿児町あごちょう(現 志摩市)に車で帰省して、自宅に戻る途中、伊勢湾フェリーで三重県鳥羽とば港から愛知県伊良湖いらご港に向かいました。天気はどんよりとした曇り空。そのデッキには、私ともう1人の中年男性の2人きりがいました。その男性は、どう見ても、グリコ・森永事件で手配中の誘拐ゆうかい犯そのものでした。最初に見た瞬間、「アッ。グリコ森永事件のあの人だ」と私は分かったのです。キツネ目で、すその長いカーキ色の特有のトレンチコート姿。いかにも自信たっぷりの風采ふうさいと動きで、しきりにタバコを吸っていました。私と彼はお互い、近付いたり、遠のいたりしながらも、無関心をよそおっていました。この自信満々の態度は、逆に、アッパレという感動を覚えたのですよ。

    40.8   病院でよど号ハイジャック事件の最年少の人に出会った?
    2018年春にある病院の待合室で待っている時、「・・・が北朝鮮に帰っているものですから・・・・」と大声で窓口の女性職員に話している声が聞こえたので、そちらを見ると、つばが回り全体に付いた薄茶色のラフな感じの帽子を被った穏やかな顔の中年男性で、2、3年前の民放の特番で見た、かつて、よど号ハイジャック事件超法規的処置ちょうほうきてきしょちにより北朝鮮に渡った赤軍派のメンバーのうち、当時最年少の少年であって、後年、日本に戻って服役後、経営者として成功した、その男の人ではないですか。テレビで放映された男性そのままの姿なのですよ。鍔付きの帽子もそのままです。女性職員の応対は普通でした。世の中、広いようで狭いですね。

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41.   交通事故

(1)   2011年8月10日(木)20時50分、私は妻・暁子さんをおむかえに行き、 帰宅途中の茨城県ひたちなか市馬渡を走る国道245号線を北に向かって走っていました。 雷雨がおさまったばかりの路面はれています。 暁子さんが助手席から「大きなトラックねえ!」と言うので見ると、 巨大なトレーラーが片側2車線のとなりの車線を併走へいそうしています。 トレーラーの方が早かったので私たちの乗用車を徐々じょじょに追い抜いていきました。 運転席の車体だけでも大型トラック1台分あり、連結していた後ろの荷台には高電圧用電線を巻きつけるための巨大なドラムローラー が8台もせています。 ただ、電線は巻かれていなくて、すべてからのドラムローラーでした。ナンバーは「岐阜ぎふ」でした。 「岐阜から遠いところを・・・」と思わずつぶやきました。
    翌日の午後のニュースバラエティ番組を何気なにげなく見ていてると、 「岐阜県の東海環状かんじょう自動車道で、渋滞じゅうたいで止まっていた数台のの乗用車などにトラックが追突した。」 と言うので画面をよく見ると、何と、昨日のあの巨大トレーラーではないか。 数台の乗用車の上におおいかぶさり、連結部で「くの字形」に折り曲がった映像です。 しかも、荷台のドラムローラーは相変わらず空のままです。恐らく、北陸道経由を深夜に岐阜にもどり、そのため居眠り運転だったのだろう。 やはり、世間はせまい。
    翌日の全国紙の2紙ともこの事故の記事はありませんでした。東海地方版には載ったと思います。

(2)   私の実家が、時によって、京阪神だったり三重県だったりで(父母が転勤族でしたので)、私は東名高速道路を年に10回以上の割で利用してきました。 よく覚えていませんが、2005年前後のある日の夕方、東名高速道路上り線の新都夫良野つぶらのトンネルを抜けて、 急カーブと急勾配こうばいが続く下り坂を時速100キロで下っていたときに、 私の後ろから猛スピードで大きな蛇行だこう運転をしているトラックが目の前を追い越してゆきました。 こういう危なっかしい箇所かしょでこのように危険な運転をするトラックはさすがに始めて見ました。 「大丈夫なのだろうか。あのトラックは。」と大いに心配して見送っていました。 運転手はいい気分で得意気とくいげ優越ゆうえつ感を持って運転していたに違いない。
    数日後のテレビニュースで、この同じ場所でトラックが蛇行運転の果てに外壁に激突するという大事故がありました。まさに、あのときに見たトラックだったのです。

(3)   私の住む茨城県ひたちなか市の、歴史のありそうなゆるやかにカーブしている道を通勤していた2000年ごろ、 黄色のセンターラインを30センチ位対向車線側にはみ出していい気になって運転する同じ車と時々すれ違っていました。 その度に「危ないなあ。」と思っていましたが、あるとき、その路線で対向車線にはみ出して運転していた車が対向車と激突するという事故がニュースで報道されました。 確かめようがありませんが、多分、その車に違いありません。ついにやったか、と。そのニュースの後、あのはみ出し運転の車には出会っていません。

(4)   猛烈な雷雨の中、私は東京からの帰り、未だ片側2車線だった時代の常磐道下り線を、石岡付近を走行していました。 雷雨が一段落した頃、後ろから1人の青年が運転する一寸ちょっといい車が得意げに猛スピードで追い抜いてゆきました。 私がしばらく走ってゆくと、その車がガードレールにぶつかって立ち往生しているではありませんか。 青年は大丈夫だいじょうぶ様子ようす。 「あーあ。お気の毒に。」と、私はそのまま通り過ぎました。1995年ごろの話です。

(5)   2001年1月4日(木)午後に、母のいる三重県の実家に向けて、東名高速道路下り線を通行していました。 都夫良野つぶらのトンネルをあと少しで出口にさしかかる頃に渋滞でストップ。 やがて、パトカーや消防車が後方からやって来て、私たちの車を通過して出口の方に疾走しっそうして行きました。 トンネル内が右カーブなので、出口は見えません。かなりの時間がっても車は動きません。 そのうち、停車中のあちこちの車から人々が出てきて、出口の方に歩いて行くので、私たちもそうしました。 出口を出てぐに、トラックの火災現場がありました。白煙で包まれています。消防車による消火中でした。 しばらくして鎮火に向かいましたので、私たちは再びトンネル内の車に戻ります。やがて、通行解除になりました。 火災がトンネル内でなくてよかったですねぇ。
    以上を下の写真にまとめました。

    その他、たくさんありましたが、なかでも、全国紙の 1 面に掲載された大事故については言及げんきゅうしないほうが身のためかも。

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消防車
後方から来ます
歩いてトンネル出口に出ると

上右画面から20分後に鎮火ちんか

トンネル内の車に戻ってから
通行解除となり、車でトンネルを出る
東名高速道路下りの都夫良野つぶらのトンネル出口でのトラック火災
2001年1月4日(木)午後に山本暁子さんが撮影

42.   那賀なか川の洪水に出会う

    2019年10月12日(土)に大型で猛烈な台風19号が数日前から豪雨を中部から東日本を広くおそいながら、伊豆半島に上陸し、夜半に東北地方に向かいました。茨城県でも強風と大雨が続きましたが、夜には静まりました。テレビでは、各地で洪水警報が続出はしていました。
    翌日、10月13日(日)に秋晴れの晴天になったので、私達は118号線を北上して常陸ひたち大宮市の道の駅「常陸大宮」で昼食をる積りでしたが、台風の影響による断水のため閉鎖していました。さらに北上して同市山方やまがた地区に入ると、洪水の泥が道をおおっていて、対向車数台がスリップして動けない様子でした。私達は県道に左折して同市のケビン村の食堂で昼食を摂ろうと来ましたが、ここも閉鎖。この山の中の県道を西進して293号線に入り、それを少し西進して常陸大宮市美和地区の道の駅「美和」に来ました。ここでやっと、掛けそばの昼食を摂ることができました。やはり、常陸秋そばは美味おいしい。293号線をさらに西進、北上して栃木県那珂川町から294号線を南下。栃木県茂木もてぎ町の道の駅「茂木」で全国道の駅ぐるめ・3年連続グランプリの柚子ゆず塩ラーメンを夕食に食べました。非常に美味しい。そして、123号線を南下して帰途に着きました。
    茨城県に戻り、旧・御前山村(現・常陸大宮市)の123号線を東進。ここでも一部に洪水があり、田畑は水で溢れ、私達が進む国道123号線の泥を重機で取り除いていたり、住民は泥に被った家具を外に出していたりして大変。コンビニも水につかったまま。御前山橋を渡った123号線は洪水はなくて順調に走ったのですが、城里しろさと町石塚を過ぎて水戸市藤井町の低地に降りるかなり手前から通行止めとなり、西側の山中に大きく迂回うかいして、来る必要のない水戸市街地を経由する羽目はめになりました。そのせいで、私達はひたちなか市前渡まえわたり地区運動会の準備会議に15分の遅刻をしてしまいました。
    以上、那賀川の堤防決壊等が原因のようですが、道中、そのことは予想もしていませんでした。なので、思いもよらず、洪水に出会ったという印象です。車を走らせながら助手席の人が断片的に撮影した写真が次のようです。
 
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茨城県常陸大宮市御前山地区
茨城県東茨城郡城里しろさと町石塚
茨城県の那珂川の洪水
2019年10月13日(日)夕方 暁子様が撮影

43.   母の死
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三重大学医学部に献体けんたいされた
2011年1月31日(月)撮影


    これは全く個人的なことです。

(その1)    母(山本美枝)は長年三重県志摩市の老人病院に入院していましたが、 2011年1月30日(日)の午前10時23分にいつの間にか息を引き取っていたそうです。95歳。 その少し前に介護かいご士さんがオムツを取り替えたときはいつものように元気だったと言うことです。 それで、私は茨城県ひたちなか市をって、東名阪自動車道の御在所ございしょサービスエリヤで車中泊をしました。 このとき1月31日朝に見た夢を次の日記で紹介します。普段は家族の夢を見ることはめったにありません。 ちなみに、父(山本弘)は1997年12月に82歳で肺炎で永眠しています。 30日にお通夜、翌2月1日に家族そうです。

    1月31日(月)曇後晴
    御在所サービスエリヤの車中泊で見た夢。**さんの家にいる。僕の左喉奥のどおくがいずいけれど、**さんと話をする。もう1人若い人がいた。 家に帰ると、玄関や庭にお花がいっぱい咲いていて、母がむかえて下さる。 家に入ると、よぼよぼの父がだれかに電話で「頑固がんこになってねえ。」などと話している。 僕や母は、「父はもうだめだなあ。」と思う、という夢を見る。
    9時に起きる。伊勢インターチェンジに11時近くに来る。・・・・・

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三重大学医学部解剖体かいぼうたい感謝式にて
田中真紀子文部科学大臣から
感謝状が授与された

2012年10月25日(木)
(その2)   
    前記(その1)の2月1日に、志摩市阿児町鵜方の葬祭「七華川なかがわ」(社長 中川氏)で、浄土真宗大谷派の源慶寺げんきょうじの梛野芳徳住職の読経どきょうにより家族そうを行いました。母の法名は釈尼妙美。 家族葬の後、直ちに、三重大学医学部に献体けんたいされました。そして、母の体は医学部学生の医学実習に役立てられました。 これに対する感謝式(三重大学医学部解剖体かいぼうたい感謝式)が2012年10月25日(木)に三重大学大講堂で行われますので、 前日、私は三重県志摩しま市内のアネックスホテルに宿泊しました。 2年前にもこのホテルを利用しましたので、ホテルのご主人とは顔なじみです。 私が明日の予定を話すと、ご主人いわく、 「私の息子が三重大学医学部の事務室に就職が決まりました。」とうれしそう。 「三重大学医学部」という偶然ぐうぜん一致いっちは面白いなあ、と思いました。

    なお、翌日の感謝式で、亡き母は時の田中真紀子文部科学大臣から感謝状が授与されました。

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44.   化学会社で起きた爆発事故の予感

    2012年9月20日頃から数日間、何も考えていないとき、何故なぜか、時々、「アクリロ二トリル」という、 高校か大学で習ったようななつかしいかしい化学物質の名前が頭に浮かんで来るのです。 何でこんな名前が浮かんでくるのかが分からないまま日にちが経ち、9月29日の夕方のテレビニュースで、『兵庫県姫路市の化学工場で「アクリル酸」のタンクが爆発し、 それに巻き込まれた若い消防署員1人が亡くなられた』、と報じられたのです。あれは何かの予感だったのだろうか? 犠牲ぎせいになった消防署員の名前も私と同じ「山本」なのも何かの因果なのかなあ?

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45.   東海道線刈谷駅の記憶

    昭和31年(1956年)6月、誰もが知っていてお正月にはあちこちで流されて耳にしている琴の名曲「春の海」を作曲、演奏された盲目の宮城道雄さんが、未明の下り寝台急行列車「銀河」から東海道線刈谷かりや駅構内で転落事故にわれました。トイレのドアとデッキのドアとを間違えたとも、また、なぞの転落自殺とも言われました。私が中学生の時でしたが、何故なぜかこれが強い印象として記憶に残っていて、その後、現在に至るまで、何かのふしに「東海道線刈谷駅」という語句が脳裏のうりをかすめます。
    2017年1月9日(火)に茨城県北茨城市にある天心記念美術館のロビーで、東京芸術大学の茨城県出身の学生さんで日本はもちろん世界的なコンクールで一位優賞を取るなどしている女性2人のヴァイオリンとピアノの協奏の素晴らしいコンサートを聴きに行ました。最初の曲が「春の海」でした。
    その2日後に、愛知県岡崎市内の東海道線の線路わき陥没かんぼつして、刈谷駅と蒲郡がまごおり駅の間が、一時、運転見合わせになりました。

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46.   スズメからの以心伝心

    2017年2月18日(土)曇、午後、一時晴れ間
    8時半に目が覚め、ウトウトしていた時に、左目のまぶたの奥に何か軽い白い物がふわっと下りてきたのを感じた。と同時に、スズメがうれしそうなさえずりをしながら、庭のグミの木に舞い降りたようなのだ。スズメの行動が僕のまぶたの奥の感覚に連動しているようで、僕自身、おどろく。以心伝心的な何かの伝達があるのではないかと考えたくなる一瞬だった。 この直後の9時過ぎに起きる。

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47.   銀座散歩の怪

    私が大学・大学院時代に長年過ごした仙台市から茨城県ひたちなか市に来た時、仙台では無理であったJR線の普通電車での東京への日帰りが可能なので、休日にJR普通電車で東京に日帰りで遊びに行こうと思っていました。しかし、当地に来てから一度もそれを実現しないまま、43年も経ってしまいました。東京へは仕事や帰郷で寄るか通過するか、たまたまのドライブ旅行で都内を車で走行する程度でしかありませんでした。東京都中央区の銀座通りは、札幌南高校の修学旅行の自由行動で1回だけクラスメートと歩いただけです。
    定年退職後の今、思い立って私1人で、2017年4月20日(木)に常磐線勝田駅から普通電車で上野駅に来て、山手線に乗り換えて有楽町駅で下り、歩いて銀座4丁目に13時頃に着きました。丁度その時、4丁目交差点で、任天堂のゲームの主人公のマリオの衣装をまとった外人達が運転する10台のレンタルカート(いわゆる「マリオカー」と言うそうです)を、警笛を鳴らしながら、上野方面に隊列を組んで運転して行くのを私は目の前で見たのですよ。そして私は、銀座の三越デパート、次いで、松屋デパートを訪問した後、東京駅八重洲口まで歩いて山手線に乗り、上野駅14時32分発の普通電車で茨城県に戻って来ました。短時間でしたが、これはこれで充実した銀座の、念願であった散歩をやっと果たしました。帰宅すると、九州の福岡市中央区で3億8400万円の現金強奪事件のニュースがテレビから報道されているではありませんか。その時は「ヘェー。そーなんだ」という程度の感じでした。
    翌日の13時20分ころ、何と、今度は、銀座4丁目交差点近くの裏道で数千万円の入ったバッグの強奪事件が発生した、とテレビで報道されたのです。バイクで持ち去られたそうです。昨日、私が4丁目交差点でマリオカーと出会ったのと同じ時刻です。大金の強奪事件が2日続けて発生することは普通にはないことで、2日目は銀座なのです。
    私が珍しく銀座を散歩したこと、そこでマリオカーの隊列と出会ったこととは無関係のはずだ、とは思いますが、偶然とはいえ、不思議で奇妙な感じはしました。

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48.   TOKIO 騒動を予感した夢

    24年間連続でNHK紅白歌合戦に出場しているロックバンド出身で5人で構成される男性アイドルグループの TOKIO の1人が、泥酔したうえで未成年の女子を自宅に呼んでアルコールをすすめたり、キスをしたというテレビ報道が2018年4月25日になされ、これが社会的に大きな衝撃を与えました。翌26日にその当人が謝罪の記者会見をしていますが、5月1日に東京地検は起訴猶予としました。その翌日、他のメンバー4人の記者会見があって、大変戸惑っている様子がうかがえました。
    何と、このページの筆者である私は、上記の騒動を予感した夢を見ていました。それを次の日記に記していました。

2018年4月15日(日)雨後曇
    0時40分にトイレ大。また寝る。2時15分、3時35分にトイレ小。出が悪い。また寝る。 そして、夢を見た。ダッシュ島のテレビで出ているトキオのメンバーが、各メンバーそれぞれの所有するパン位の大きさの沢山の品々を大きな鉄板に載せた。それを移動させるときに、ガンが発覚した別のメンバーが、自分の所有する品を鉄板に並べてある上記の品々に降りかけてきた。夢を見ている僕も、トキオの各メンバーも「アアッ」と言って唖然あぜんとする。僕はそっと、「鉄板に並べてある品々を、降りかけた品から隔離かくりして、洗浄してあげようかな」、と思う夢を見た。 5時35分にトイレ小。また寝る。・・・

    なお、私は昔からよく様々な夢を見ますが、芸能人の夢を見ることは滅多めったにありません。ただし、TOKIO については、私は日本テレビの日曜19時からの番組「ダッシュ島」をよく見ています。

return

49.   幼稚園児の交通事故に関する偶然 ?

    次の日記をお読みください。

2019年5月8日(水)快晴、午前は風がやや冷たい。午後には気温が高くなる。
    9時45分に奥方をコーラスの練習のために水戸市内の A 幼稚園に車で送る。僕は赤塚駅から半袖、半パン姿で、国道50号バイパス経由という大回りのコースで水戸駅に向かっての約10キロのウォーキングを開始。国道に向かう途中の10時半に、K 幼稚園の直ぐ近くの交差点で、K 幼稚園の園児 20人くらいと数人の先生方が交差点で信号を待っている。先生方は甲斐甲斐しく園児に対応している。青信号になって、僕と一緒に園児たちと先生方も交差点を渡った。その後、僕は2時間半のウォーキングを終えて、水戸駅から電車で赤塚駅に戻ったのだった。奥方を再び車に乗せ、H 市に戻り、奥方と N 眼科に来る。待合室でテレビを見ると、何と、11時に滋賀県大津市内で2台の車が接触して1台が園児と先生の集団15人に突っ込み、2児が死亡、他も全員重軽傷というとんだもない事故が大々的に延々と報道されているではないか。
    何ということだ、時刻もほぼ同じ、交差点での園児の集団、そこに居合わせていた僕。奇妙な偶然だ。

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50.   ビル火災の大惨事の予感

    2019年7月17日(水)に、ランチ案内のパンフレッドを見た私の妻の要望で、茨城県内の中堅都市の中心にある小さなビル2階の小料理店で寿司ランチをとることに。特急が止まる駅前を人に訪ねながら、表通りから少し裏手に回って、やっと見つけることができた。ビルの1階から直ぐに階段を登って2階に上がる。私は思った。「都市の中心にあるこのような多くのビルが、もし火事でもあったら逃げ場がなくて大惨事さんじになるだろうなあ」と。数年前の東京・新宿の歌舞伎町の火災事故の惨劇を思い出しながら。
    翌、7月18日(木)午前10時過ぎに、京都市伏見区の京都アニメーションの3階建てビル1階に、ガソリンをいての放火事件があり、たちまちこのビルが黒煙と炎に包まれて、34名(女性21名、男性13名)の死者と34名の重軽傷者を出すという大惨事となった。その多くが有能な若い人たちであった。 テレビの映像その2その3) で見る限り、一旦、炎に包まれると、逃げ場がないように見える。犯人も大火傷を負っているが、「パクられた」と言ってこの会社をうらんでいたという。
    前日の私の懸念けねんが現実になったのであった。

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    上記 43.49. は次のサイト(こちら class_mates)に似ています。

51.   ピロリ菌の除菌をしました

    2014年に種々のテレビ番組で、「ピロリ菌 (Helicobacter pylori)が胃がんの原因であることが最近分かった。」と報じていました。 そこで、私も検査を受けてみたいと思うようになりました。

    2014年3月31日(月)9時20分に国立水戸医療センター(旧 国立水戸病院)に来てピロリ菌検査を申し出たが、 「この検査は初診としては受け付けていません。胃の疾患による紹介状はありますか?」ということで目的を果たせなかった。 また、「ピロリ菌検査単独では健康保険が適用されない。」とのことでした。

    つぎに、2014年5月13日(火)9時半に水戸共同病院に来てピロリ菌検査を申し出たが、上記同様に拒否されました。

    そこで、2014年7月16日(水)に地元である茨城県ひたちなか市内の 山口内科クリニックに来て、8時からピロリ菌検査のため、僕の血を採血。 9時半にバリウムを飲んで胃のレントゲン検査を受ける。待合室でかなりの時間を待ち、10時過ぎに再び採血をし、妻もピロリ菌検査のための採血。
    7月25日(金)午前に山口内科クリニックに電話によってピロリ菌検査結果を山口先生から伺うと、 妻はピロリ菌がいなかったが、僕にはピロリ菌がいるという。ああ、残念。
    7月30日(水)9時過ぎに山口内科クリニックに正式に結果を聞きに行く。11時半に山口先生から説明あって、妻の血液検査は100点で、ピロリ菌もないという。 僕はコレステロールが高いのと、ピロリ菌がいるとの判定でした。その判定結果を次に示します。

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僕の胃の内視鏡写真(異常なし)
2014年8月1日(金)

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石が尿管に詰まり
腎臓が尿で浸潤した

2014年8月6日(水)
腎臓が正常になった
2014年9月11日(木)
僕の腎臓の超音波映像

    ところで、前記7月16日に撮影した胃のレントゲン検査について、昨日届いた県からの検査結果が「粘膜不整」となっていたので、金曜日に胃カメラの検査の予約をする。 山口先生のお話では、「多分大丈夫でしょうが、念のため、『粘膜不整』として精密検査を促す。」ということらしい。

    そこで、2014年8月1日(金)8時に山口内科クリニックに行き、今度は胃の内視鏡検査を受ける。 その結果は異常なしであった。一安心。胃のカラー写真を先生から頂く。この写真が右上の画像です。 このクリニックに隣接する薬局で、1週間分のピロリ菌除菌の薬をもらい、この日の夕食にピロリ菌除菌の薬を1回目として飲む。

    この翌日から1週間、一日2回、朝食後と夕食後にピロリ菌除菌の薬一錠づつを飲み続けました。 あらかじめ、薬局から「副作用として、便がゆるくなります。」 とは言われていましたが、僕の場合は大変でした。 毎日の下痢げり、大量のガス放出、そして、1回だけでしたが、ガス放出ときに下着に失禁する、という事態になった訳です。

    偶然ですが、除菌5日目に右脇腹が猛烈に痛んだので、緊急に山口先生に見ていただき、腹部レントゲン撮影と超音波検査により、 何と、尿管結石にょうかんけっせきも発症したことが分かりました。 結石が尿管に詰まって、右図下左の超音波による腎臓じんぞうの画像のように、 腎臓が尿で浸潤しんじゅんしたのです。 この治療も投薬にてピロリ菌除菌と同時進行となりました。数日後に尿管結石は完治しました。その超音波画像が右図下右の腎臓画像で、正常になっています。 ピロリ菌の除菌の最中に、偶然、尿管結石を発祥するという不可思議なことでした。

    肝心のピロリ菌の除菌が成功したかどうかの検査は、抗体反応の関係から、半年後以降になるそうです。果たして、成功したでしょうか?

    2015年5月のある日に山口内科クリニックに去年の除菌が成功したかどうかの検査を受けようと出向いたところ、 何と、山口先生ご自身がお倒れになり、他の病院に入院なさったというのです。毎日、朝から晩まで患者のために熱心にお働きになり、 過労がたたったのだと思います。衷心ちゃうしんよりお見舞い申し上げます。

    それで改めて、2015年6月17日(水)に水府病院でピロリ菌検査を受けました。その結果が6月26日(金)に筑波大学から来られている大田先生から知らされました。 それによると、「尿素呼気検査の結果が 0.0 パーミルで、ピロリ菌は完全にいなくなっています。」ということで、 去年のピロリ菌除菌が成功したことになります。 この検査結果を次に示します。

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52.   コマを回して腰まわりの筋肉が肉離れ

信雄が10数年ぶりにコマを回しましたが、
翌日に
悲劇が・・・
国営常ゆる陸海浜公園の古民家にて(茨城県)
2015年1月12日(月) 暁子さんが撮影

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同上
1月12日(月)快晴、昼ごろ北西の風強し。寒くなる。
    8時45分に暁子さんと地元・茨城県ひたちなか市にある国営常陸ひたち海浜公園に歩いて出かける。 汗がにじみそうになったので上はシャツ1枚になり、さらに、腕をまくる。 9時半前に海浜公園に着き、9時半の開園で中に入り、古民家に来る。10時から繭玉まゆだま作り。11時から外のどんど焼を見学。 古民家の広い庭に日本古来の竹とんぼやコマなどの遊技が置いてあり、僕はコマを回す。 木製のコマはどれも老朽化して、回しヒモもボロボロ。 8回くらい試したうち、1回だけうまく回った。それが右の写真である。まわりの子供達はコマに全く興味がないようだ。帰りも歩いて13時過ぎに帰宅。

1月13日(火)快晴
    昼過ぎから腰のまわり全体が痛み出し、15時ころから痛みがひどくなり、 座椅子で姿勢を変えるにも、立ち上がるにも、歩くにも、ものすごく痛くて大変。 昨日のウォーキングが原因か、または、コマ回しによる急激な腰のひねりが原因か、それとも、尿管結石か。? 筋肉痛に違いない、筋肉痛ならば自然に治るであろう、と考えて、 医者には行かない積りでいた。寝るときに、横になる何気ない動作そのものが猛烈に痛い。 もちろん、寝返りは打てず、毎日僕がそうするように、心臓を上に横向きに寝て、何とかその日は収まった。

1月14日(水)快晴、
    今日も腰の周りが痛い。腰まわり全体から、特に、左腰がひどく痛い。座椅子から立ち上がるとき、坐るとき、寝るときすごく苦労する。 寝てからも、痛みが和らぐ姿勢を求めて、体を少しでも移動させようとするが、それが痛くて出来ない。 筋肉痛なら、少しは痛みが和らぐと期待していたのだが、その気配がなく、 ひょっとして尿管結石かもしれないので、明日早くに内科医院に行こうと思う。

1月15日(木)曇後雨
     7時半に起きる。8時前に1人で車で出かけ、郵便局に2枚の年賀状を出してから、予約なしで8時20分に 山口内科クリニックに飛び込む。 運転席に坐るにも大変なことだった。待合室の椅子に坐るにも、痛むので姿勢や角度を変えなくてはいけない。時々、立ったほうが楽である。 待つうち、11時前に採尿、腹部と胸部のレントゲン撮影、採血があり、12時過ぎに山口先生に呼ばれ、 「尿には異常はありませんでした。よって、尿管結石ではありません。筋肉が原因かも知れませんね。」とおっしゃる。 僕が「寝るときが物すごく痛いんです。」と言うと、 先生は「あっ。それは安全だ。寝るときに痛まないほうが危いのです。」と。明日の超音波検査の予約をして薬局へ。 痛み止めと炎症止めとビタミンB12、それと、それらの薬による胃の表面の荒れを防ぐための錠剤の飲み薬、と、 痛め止めの大きな絆創膏ばんそうこうが処方されました。 胃の表面の荒れは胃ガンのリスクとなる。胃がんのリスクを避けるためために、僕はビタミンB12だけ飲むことにした。 絆創膏は利用した。痛みは昨日と同様にひどい。

1月16日(金)晴後曇、夜に時々にわか雨、暖かい
    7時40分に起きる。1人で山口内科クリニックに来る。7時50分にお腹の超音波検査を受ける。山口先生は「腎臓には異常はないね」と言いながら操作しておられた。 9時50分に山口先生に呼ばれ、超音波診断結果と昨日の血液検査結果を説明して下さり、「腎臓などには異常はありません。 恐らく、腰をひねったために筋肉がこわれたためでしょう。何かあったら、 整形外科で見てもらいなさい。」と、ここの病院から放免された。 痛くて歩くのがつらい。車に乗り込むのも大変。夜、痛みが左腰から左モモまでも広がってきた。痛みは昨日と同様で、寝るときは物すごく大変。

    ということで、コマを回すときに思いのほか、腰の大きなひねりが入り、腰の筋肉が一部壊れたためということだ。 肉離にくばなれれの可能性もあるらしい。そこに炎症が起こって、血液検査でも炎症反応が出、脈拍も1分間110以上。 しかし、目立った熱は出なかった。
    1月19日(月)になって、やっと痛みが半減し、快方に向かっていると自覚できた。しかし、まだ大分痛い。脈拍は80くらいに収まってきた。

    年を取ったら、コマ回しは厳禁ですよ

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53.   私にはホクロが1つもない

    かねがね思っていたのですが、女性はホクロが多く、男性はそれ程でもないと。テレビで見る女性タレントは、結構、ホクロが見られる。 なぜ、女性にホクロが多いのだろうか。女性ホルモンの影響か? ちなみに、私(男性)は1つもホクロがない。

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54.   兆候ちょうこう

    2016年7月頃から 2016年8月24日(水)のほとんど毎日の深夜、お隣の S さん宅の M ちゃん(15歳の犬)がウーウーと悲しそうに泣いていました。昼間はまあまあ元気でおとなしいのですが。M ちゃんが年を取って、寂しがるようになったのかな、と思っていました。
    話が変わって、翌 8月25日(木)〔快晴、午後から猛暑〕の 18時半に、水戸市赤塚駅南口を西に向けて車を走らせているときに、いつもの国内航空路線にあたる西方の高い空を1機の航空機が東京に向かって飛行している。すると、突如、明るいオレンジに2秒間光り、その後、2秒間光を消し、また2秒間光り、次に、3秒くらい光を消して3秒くらい光った後、光がスーッと消えて、航空機がどこに行ったか分からなくなりました。航空機の付近に雲はありません。あれ、UFOかな、と一瞬、思いましたが、直線的に一定のスピードで飛んでいたので航空機に間違いありません。日没直後で地表は暗くなりましたが、航空機の下方に西日が反射していたのでしょう。そして、消えた間は、はるか西にある綿雲わたぐもの群れの影になったものと思われました。うっかりUFOと間違えるところでした。
    そして、19時に帰宅したとき、隣の S さん宅の M ちゃんがウーウーと悲しそうに泣いていましたので、モモちゃんの様子を暗がりの中でうかがうと、モモちゃんは背を丸くして顔を下にしてうなっています。丁度ちょうど、 S さんの奥様も様子を見に来られて、M ちゃんに手をやっています。僕が奥様に「今晩は。M ちゃんが年を取っていて、悲しんでいるのですかね。」と声をかけました。奥様は「さあ。M ちゃんは 15歳なの。」と。この後、深夜になっても、M ちゃんが悲しそうに泣くことはありませんでした。19時に、僕が M ちゃんを訪問して、奥様と話をした効果が現れたのかも知れません。
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豊和病院に母を見舞う
2008年8月
志摩スペイン村にて
2008年9月
妹のKzk


    翌 8月26日(金)〔晴、やや暑い〕の 9時半に、三重県志摩市役所民生課から電話があって、妹であるKzkのことで、「三重県鳥羽とば警察署刑事課に電話をして下さい。」と言われ、鳥羽警察署刑事課に電話をすると、鳥羽警察署刑事課の Umr さんから電話があり、「市の民生課の方から、『Kzkさんの家のゴミがそのままで、呼びかけても応答がない』と私どもに連絡があり、私どもが家の中に入って調べたら、浴室の洗い場にkzkさんが倒れていました。死後かなりの日数が経っているので、Kzkさんであるという確定が出来ません。それで、警察署で遺体を保管しています。近所の方々に聞き回ると、『そう言えば、最近、Kzkさんの姿が見えない。』とのことです。浴室で脱いでいた下着には汚物が付いていて、日数が経って遺体がいたんでいるので、死因は調べても分らないでしょう。戸締りがしっかりしていたので、事件性はないようです。Kzkさんの通っていた歯医者さんに歯形を同定して、本人確認などをしますが、もし特定できないときは、お兄さんにお越し頂いて遺伝子検査のご協力を願いたい。そして、本人確認が出来次第、お骨にしてお戻ししたい。」とおっしゃった。
    いやはや、妹は我が強く、髪の毛も真っ黒だし、長生きするのではないか、と思っていたので、今回の孤独死を聞かされて、ビックリ仰天ぎょうてん。妹が亡くなったであろう日からこの日までどの位の日数がったのかは分からないが、そういえば、隣の S さん宅の M ちゃんが、最近、毎深夜、ウーウーと悲しげに泣くのと関係しているのではないかと、かんぐられてきた訳です。不思議な感じがしてきたのです。その証拠に、あんなに毎夜ウーウーと悲しげに唸っていたのに、昨日以来、パタと止んでしまったのですから。それと、妹は1947年(昭和21年)のいぬどしでした。
    妹は突然死なのだろうか。脳か心臓か、または、転んで脳震盪のうしんとうを起してそのままってしまったのか。それとも、栄養の失調でスーッと風呂場で安らかに眠ったまま逝ったのではないか。と言うのは、妹は以前から便秘薬を常用していて、足が痛んで買い物にも不自由でタクシーを利用していたらしく、冷蔵庫の中が空っぽのこともあったからです。警察の方の話では、遺体は日数が経っていて傷みが激しく、死因は同定できないだろう、と言う。妹が可愛そうだ。誕生日が7月29日なので、69歳か70歳となる。本当に残念だ。そういえば、2, 3ヶ月前の妹からの電話で、「足が痛くて歩けない。どこか、入院できる介護病院はないか。」、とか、「お兄ちゃんはもうこちらに来ないのか。」と聞いてきたのが最後だ。僕(茨城県在住)は、「そっちは遠いから、志摩市の民生の人に相談してちょうだい。未だ若いし、介護病院も沢山たくさんの人が順番待ちで、直ぐには難しいよ。」と言ってやったのだが。
死亡した直前と思われる頃に、妹から3回、電話があったことが下記のように私の日記に記されています。

6月5日(日)曇、夜半に一時雨
    珍しく1年以上振りに妹からTELあって、「もう、何だか分からないわ。」と言う。僕は「志摩病院に相談したら。」と言うと、小さな声で「行きたくない。」という様な事を言うがよく聞こえないので、「聞こえない。」と僕が言うと、妹は「聞こえなくてもいい。」と言う。僕が「何とか頑張って。」と言うと、妹は「お兄ちゃん、年賀状有難う。」と言って、一応電話が終わる。

6月17日(金)快晴
    珍しく妹からTELあって、今年で2回目。妹曰く「こちらは何もかも変わってしまって、タクシーが来てくれない。高齢者が乗っている最中に亡くなるかもしれないというので。」。僕は「市役所などに相談したら。」と答える。

6月20日(月)快晴、暑い。
    妹からTELあって、「お兄ちゃん、こっちに来てくれない?」と言う。僕は、「そっちに行くのに、往復7万円以上かかるよ。行く用事がないので、行く予定はない。」と答える。

    その後、妹からの電話はありませんでした。

    今、この記事を書いている8月29日の夜までは、もう、S さん宅の M ちゃんが泣くことはなくなった。妹の遺体が発見されて、一先ず、異常事態が去ったからなのだろうか。
    もう一つ、気になることがあった。妹の誕生日は7月29日なのだが、今年の8月1日の昼下がりに何気なく、茨城県鉾田市と大洗町の国道、県道、市道をあちこちさまよいながらドライブしていました。 春に戻ったようなとても穏やかな晴天で真上の天空は青空、しかし、周辺の空には、下図のように、夏の綺麗な積乱雲がたなびいていて、うっとりとした気持ちでドライブしたのでした。後日、考えたのですが、その日は妹の命日を知らせるような何かだったのかな、と。
    なお、最初に志摩市役所民生課から電話があった8月26日は、私の誕生日の2日後でした。

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茨城県鉾田市と大洗町にて
2016年8月1日(月)午後

    11月3日19時に三重県鳥羽警察署から電話があって、昨夕、DNA鑑定の結果、妹の本人確認ができたという知らせが入りました。DNA鑑定が2か月半もかかったのです。それでやっと諸手続きを始めることが出来ますが、最初の手続きである死亡届けにしてから面倒でした。それは、先ず、鳥羽警察署から妹の死亡診断書を送って頂き、届け人の私が住んでいる茨城県ひたちなか市役所に提出して、妹の本籍の新潟県上越市、および、妹の住む三重県志摩市のそれぞれの市役所に通知してもらうよう、申請するという訳です。 その後、私が今後成すべき諸手続きに必要な妹の戸籍謄本一式(戸籍除本を含む)を上越市役所から取り寄せることになる訳です。
    明確な死亡日が不明で、警察の鑑定書では「死亡は6月頃」となっていますが、市役所などの書類では「6月30日」と申請しました。
    12月14日(水)午後に志摩市阿児町鵜方の葬祭「七華川なかがわ」(社長 中川氏)で、浄土真宗大谷派の源慶寺げんきょうじ梛野なしの芳徳住職の読経どきょうにより家族葬を行いました。法名釈尼妙和。(浄土真宗の戒名は短くて簡潔)。
    なお、お隣の S さんの奥様のお話によると、M ちゃんは翌年2月24日に眠るように静かに大往生をげたそうです。

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55.   毎年一輪しか咲かないバラ

    私の家の庭に、毎年、春と秋に2回、1回につき、たった一輪しか花を付けないバラがあります。一輪だけですが、花の直径は20センチ程度とかなり大きく、しかも、落ち着いた紅色の気高けだかいたたずまいをしています。まるで、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説に出てくるバラ彷彿ほうふつとさせます。この様子を下の写真で示します。なお、このバラは「管理人のプロフィール(上)」に紹介したバラのことです。
    2018年の夏は史上まれにみる猛暑続きですが、夏には咲かなかったこのバラが2018年8月の猛暑の中、珍しく咲きました。(次図の下段右図)

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2014年6月
2017年6月

2017年11月
珍しく猛暑に
咲きました

2018年8月
5日(日)
秋にも
咲きました

2018年10月
19日(金)
白い花は
スイカズラ

2019年6月
2日(日)

    花を付ける枝は2本程度で、年によって、ある枝が枯れると、交代に別の新しい枝が出来る、という具合で、妻の暁子様が水戸市泉町の花屋さんで植木鉢として買って庭に移植して以来、20年経ちますが、一向に枝と花が増えることがありません。これは何の種類のバラなのでしょうか。花が散ると、間もなく葉も散ります。緑の枝だけが残ります。バラの木と言うよりはバラの草のようです。こんなバラを他に見たことがありません。育て方が悪いのでしょうか。しかし、花は綺麗きれいでしっかりしています。10年以上前の若いときには、次の写真のように、一度に2,3輪咲いたこともありました。いつも不思議に思っているバラです。

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2007年10月
手前にはアサガオのツルがあります

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56.   すが官房長官の泣きべそ

    下記に記した日記(2日連続)のようなことがあった。

2017年6月8日(木)曇
    寝る準備で、畳の上に布団を敷いている20時頃、すが官房長官が泣きべそをかいている姿が私の脳裏のうりをよぎった。 安倍首相の意向を文部科学省内のメールで指令したという加計かけ学園の獣医学部設置に関する国家戦略特区問題について、菅官房長官がかたくなにそのメールの調査を拒否していたことを、自らいたんで情けなく感じたのか? と私は思った。一種の以心伝心いしんでんしんではないか。それで、実際に調査をする方向に正常化できればよいな、と願うばかりだ。

6月9日(金)快晴、さわやか
    夕方のテレビニュースで、加計学園の国家戦略特区問題について安倍首相の意向を指令したという文部科学省内部メールについて、昨日までかたくなに菅官房長官が調査拒否したのをひるがえして、ついに、文部科学大臣が、安倍首相の了解を得て、国民の圧力に押されて調査すると明言した、と報じられた。ざまぁー見ろ、菅、安倍。

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不快指数早見表
57.   不快指数

    不快指数こちらのサイトに、「1957年、米国で蒸し暑さを示す温湿度指数を冷房設計に用いたのが最初。日本では61年夏から使われ始めた。」とあります。日本ではその後、夏の天気予報に不快指数が必ず予報されてきたのですが、どういう訳か、2000年に入ってからは、使われなくなって来ました。夏の体感的な暑さは、気温と湿度の双方で決まるので、気温だけではどの程度の体感的な暑さかは分からないのです。その点、この不快指数は、ずばり、体感的な暑さを表現しています。復活を望む所です。
    気温と湿度から換算される不快指数早見表を右図に示します。この表は私が以前に何かの切り抜きで保持していいたもので、原典は不明です。不快指数からどの程度の体感的な暑さ(蒸し暑さの程度、すなわち、不快と感じる度合い)になるかについての解釈はいろいろあるようですが、一例として、 こちらのサイトにそれらの関係を示す表があります。その要点を書き出しますと、次のようです。
    「不快指数が70で不快を感じ始め、75で半数以上の人が不快に感じ、80ですべての人が不快に感じる。」(DAIKIN の空調関連用語より)

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(クリックすると全体が表示されます)
血管年齢測定装置
2018年7月18日に撮影
58.   私の血管年齢

    2018年3月29日(木)に福島県白河市のスーパーストア「ベイシア」の軽食コーナーで醤油ラーメン390円を食べました。これぞ、白河ラーメンと言える美味しいラーメンだ。そして、メインの出入り口に戻り、直前にある自動販売機でココアを飲んでいた所、直ぐ隣で、地元の女子中学生たちが血管年齢測定器で血管年齢を測ってキャーキャー笑い合っているではないか。前にここに来た時はこの測定器はなかったのだから、最近、設置されたらしい。女子中学生たちが去った後、僕も測ってみた。右手人差し指を所定の穴に差し込んでから30秒かけて測定するという装置である。その測定結果が、嬉しいことに、下左図のように出ました。私の血管年齢が、私の実年齢75歳よりも約15歳も若いという結果なのです。
    そう言えば、現在はないのですが、15年前に茨城県那珂郡東海村のスーパー「イオン」の1階の軽食コーナーの一角に血管年齢測定器があって、60歳の私が測定したところ、血管年齢が40歳と出たことを思い出しました。
    2018年7月18日(水)に再び測定しました。その結果を下右図に示します。前と同じように、私の血管年齢が、私の実年齢75歳よりも約15歳も若いという結果を示し、さらに、全ての項目で最良のAランクを示しました。

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2018年3月29日(木)
2018年7月18日(水)
私の血管年齢測定結果

    各項目の評価基準を次に示します。特に、下最右の脈波の評価基準と比べると、何と、私の脈波30歳代を示しています。

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元気度
血管健康度
血管状態
あなたの脈波
各項目の評価基準
2018年7月18日(水)に撮影

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59.   腰痛ようつうの原因の1つがトイレ大の後の・・・ ?

    日本人は腰痛に悩んでいる人が多く、突然現れるぎっくり腰も多く聞かれます。その原因は、脊椎管狭窄症せきついかんきょうさくしょうなど、様々さまざまです。
    私は25年位前(1993年頃)の50歳頃に、今までなかった軽い腰痛が出たことがあります。日常生活には全く影響がなかったのでそのまま放っていました。その数年後位に、おしりの周りが肉がついて大きくなったことで、トイレ大の後の尻きがしづらくなって来て、ついには、右手をお尻の横からお尻を拭くことが難しくなったのです。即ち、お尻に右手の先が届かなくなったのです。
    それで、右手をまたの中に入れて、お尻を拭くことに変更せざるを得なくなりました。今はれていますが、当時は苦渋くじゅうの選択でした。その代わり、手洗いはお医者さんがするように石鹸せっけんで手首まで丁寧ていねいに洗います。
    このようにお尻拭きのやり方を変更して以来腰痛がウソのようになくなったのです。 そこで、考えたのです。腰痛の原因の一つとして、トイレ大の後のお尻拭きにお尻の横から手を回して行っていることから、無意識のうちに、お尻を無理してねじっていることにあるのではないかと。特に、日本人はどうが長いので、その傾向があるため、多くの日本人が腰痛に悩む結果となっているのではないか、と考えるにいたっています。

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60.   あとがき

    どうも私は常人では余り起きないおかしなことが多かったように思います。ここに書きしるした以外にも、 いろいろ奇妙なこと、数多くの偶発的ぐうはつてきな事件現場や事故現場との出食でくわせがありましたが、 取り止めもないのでこの程度にしておきます。同僚のO先生や馴染なじみのI食堂の旦那だんなさんとは、 お茶飲み話のたねにしてきましたが。
    広い世の中、もっと不思議なこと、がたくさんあるに違いありません。 が、このことにのめり込まない意志が肝要かんようかと思います。

    最後に、1つ、く小さなことですが付け加えておきます。
    「一寸の虫にも一分いちぶたましい」ということわざがありますが、 私は人間と余り違いのない感情を持っていると思います。同じ動物です。 例えば、取り線香せんこういて蚊の駆除くじょをしているときに、 他の可愛かわらしい昆虫が「何とかしてくれ。」とでもわんばかりに、 私の目の前や指先に寄ってくることがよくあります。私は「よし。がしてあげるから、辛抱しんぼうして待っててくれ。」と そっと外に逃がしてやるのですが、その間、私の意志が通じているかのようにじっとしています。 また、窓ガラスでさえぎられて外に飛んで行けなくなった昆虫を逃がすときには、「よし、逃がしてやるから、言うことを聞いておとなしくしていなさい。」 と心に思いながら、やさしく接すると、自分の思うとおりに容易に逃がしてやることができます。 獰猛どうもうなスズメバチでさえも大人しくなります。心が通じるのですかね。
    人間のエゴで、「昆虫などの小動物は本能でのみ行動をし、感情は持たない。」と言われますが、どうもそうではないようですよ。 ただし、人間に危害を加えようとする小動物や動物には注意が必要です。

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茨城高専講師時代の講義
(1975年頃) [註] ここでは説明
の都合上、実部を取っていま
すが、通常は虚部を取ります。
    高専に赴任してからしばらく後に怪奇現象や超常ちょうじょう現象や超能力が流行はやった頃、 学生から「先生はテレパシーを信じますか。」と聞かれることがあります。「何? テレパシー? そんなのあるわけないだろう。何言ってんだ。アハハ。」と私が言うと、 「先生は何か超能力を持っているように見えるんで。」と弁解するのですよ。この種の学生側の質問が、私の若い頃に度々たびたびありました。

    定年退職から3年経った66歳の今、奇妙なことはほとんどありません。が、朝の起きけの静かなとき、 左耳奥から左のど奥にかけてシーンという強い音を感じます。 多分、脳の中の海馬かいば領域が過敏で動物的本能が強いのでしょう。それで、現代生活とのギャップで疲れていたのでしょう。 こうして、長年の疲労がまってきたのですが、睡眠を十分にとっても一朝一夕では回復しません。長期間のくつろぎの期間が必要のようです。 回復の速度というものは本当に遅い!

    1995年代頃に、自ら進んで国家公務員共済きょうさい組合のS病院に診察を受けましたが、「異常なし」でした。 それでも、脳腫瘍しゅよう等の精密検査を病院の先生にお願いすると、「血液に薬剤を注入して脳の血管映像を写すことになるので、 それなりの準備と、これがしの費用がかかる。」と言われまして、「それほどまでして検査することもなかろう。」 と思ってめた経緯けいいはあります。

    2012年代に、日本との政治問題が起きたときに、各国の首脳が立ったまま苦悩しているという姿が私の夢枕に現れる、ということが再三ありました。

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茨城高専時代の講義風景
(その2)   
(1980年代)
電子材料の古典統計
茨城高専時代の講義風景
(その3)   
(1980年代)
制御工学の極配置

答案を返却の後、学生から
採点訂正の要求を聞くところ

(2000年頃)
卒業研究風景
(1990年代)



付録 1   夢の中で浮かび出た短い曲

    2006年6月17日早朝の夢の中で、自然に浮かび出た短い曲はこちら_ 短い曲
    この曲を聞くには、Microsoft 社が提供している無料のソフト 'musescore.org' をインストールする必要があります。


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付録 2   茨城県常陸太田ひたちおおた市の蕎麦そばの里の新緑、 福島県いわき市四時しどき 渓谷けいこくの紅葉、など

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蕎麦そばの里の新緑
2009年4月22日(水)
茨城県常陸太田市赤土町
(旧 久慈郡金砂郷町赤土)
1977年頃にスーパーで
購入したくずかご

当時はこのように
ほのぼのとした絵
描かれています。

福島県いわき市
四時しどき渓谷けいこく紅葉

1997年11月10日(月)
天気は晴
川沿いの危険な林道にて

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福島県いわき市
四時しどき渓谷けいこく紅葉(つづき)

1997年11月10日(月)   天気は晴
川沿いの危険な林道にて

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福島県いわき市
四時しどき渓谷けいこく紅葉(その2)

上の5年前の1992年11月上旬   天気は高曇り
川沿いの危険な林道にて
人の来ることのない渓谷の紅葉の色はかくのごとしです。
しかし、今はここに来ることは危ないかも知れません。

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付録 3   モミジの落ち葉

    2004年12月上旬に山本暁子様が集めたモミジの落ち葉たちです。綺麗きれいなので載せました。

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モミジの落ち葉
茨城県ひたちなか市にて山本暁子様が採取

2004年12月上旬に山本暁子様が撮影

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付録 4   変わった道路表示と交通安全看板かんばん

    下左の画像は制限速度が時速45キロを示しています。中途半端ちゅうとはんぱな珍しい数値です。 理由は分かりませんが、ダム工事車両通行用のためか、と思いました。1990年5月の連休にたまたまおとずれた 山形県西置賜おきたま飯豊いいで町にある白川ダム奥の一般道です。
    下中の画像は1993年8月上旬じょうじゅんに新潟県北魚沼うおぬま小出こいで町 (現 魚沼市)から発して新潟県北魚沼郡湯之谷村(現 魚沼市)のけわしい山中を、 福島県寄りにかなり入った国道352号線で撮ったものです。初めて私がここを通ったのは1985年頃。今回で3度目です。 当時、この道路は、①未舗装のすべりやすい砂利じゃり道で、 ②道幅がせまく、③ガードレールが一切いっさい無く、④急勾配こうばいで、 ⑤道路下は急傾斜で深い谷へと落ちており、⑥一番近い人里から10キロも離れていて、⑦他の車の通行は全くありませんでした。 そのため、「バイク通行厳禁げんきん」の看板も新潟県側の入り口にありました。 もし、スリップしたら、そくがけ下への転落となり、本当に「連絡方法は無いぞ。」と 運転する私の足がふるえるくらいこわいものでした。 なお、1990年代後半に舗装され、ガードレールも付きましたので、危険はなくなりました。
    下右の画像では、この危険であった当時の道路が遠望できます。福島県に入ると、奥只見ただみ湖を経由して、 日光国立公園・尾瀬おぜの北側の御池みいけを通り、 南会津あいづ桧枝岐ひのえまた村にいたります。

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1990年5月の連休
1995年10月
制限速度45キロの道路標示
山形県西置賜おきたま飯豊いいで町にある白川ダム奥(飯豊山のふもと)にて


「連絡方法なし」の看板とその道路の遠望(前方が西)
新潟県北魚沼うおぬま郡湯之谷村(現 魚沼市)の国道352号線
1993年8月上旬(夕方)

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付録 5   ベニテングタケ(紅天狗茸)

    童話の絵によく出てきますが、実際に見ることは滅多めったにありません。 広島県東広島市上三永かみみながの道路ぎわの山林に見つけました。 ここは、住宅が散在しますが、マムシが多いそうです。
    実際、数年前に、この向かいにある屋敷に続く土手どて下に接するだまりの市道で、 その屋敷とは別の近所の農家のおじさんと話をしていると、 突然、おじさんが近くに落ちていた棒切れをつかんで道路のはしっこの草むらを バシッ、バシッと猛烈もうれつたたくのです。 が、「げられたか。」と残念そうに言いました。私が「どうしたのですか。」と聞くと、「マムシがいたんだよ。」と。 「えっ。こんな道路にですか。」と私がおどろくと、 「ああ。いるよ。この辺はどこにもいる。」と真面目まじめな顔で言っていました。

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現場      正面は文中の屋敷
ベニテングタケは右の道を50メートル
上がった所。文中の「マムシ」の現場は
左に30メ>ートル。    人物は筆者
玖島くしま秀雄氏の別荘の入口
右の写真から150メートル上がった所。
玖島秀雄氏は筆者の父・山本弘の
知人でした。

(参考)付近の状況    2004年9月18日(土)    撮影は山本暁子さん

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ベニテングタケ
広島県東広島市上三永かみみながにて

2004年9月18日(土)
撮影は山本暁子さん

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付録 6   台風一過の夕焼け

    2013年9月16日(月)に京都府京都市と福知山市をはじめとする日本各地の洪水や 埼玉県熊谷市など日本の数箇所を襲った竜巻・突風による災害をもたらした台風18号は その日の夜に温帯低気圧となって北海道の東に去っていきましたが、この台風一過の怪しい夕焼けが次の画像で、 18時頃の茨城県ひたちなか市での撮影です。 黄金色と朱色、そして、雲の切れ間に見える青空が特徴でした。

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台風一過の夕焼け
茨城県ひたちなか市馬渡まわたりにて

2013年9月16日(月)18時頃

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付録 7   晩秋における石楠花しゃくなげの狂い咲き

    2013年の秋は、10月はじめまで真夏日(東京で)があるなど、夏が秋に食い込む形となった後に、 初冬のような記録的寒さが1週間続き、その直後に再び記録的暑さがぶり返しました。 この影響で、茨城県ひたちなか市にある私の家の庭の石楠花が狂い咲きました。
    白い石楠花は早くに開花しましたが、赤い石楠花は遅くつぼみを出したままついに冬の到来となり、開花に至りませんでした。
    [註]10月中旬は、季語としては「晩秋」に入ります。

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晩秋における石楠花の狂い咲き
茨城県ひたちなか市の自宅の庭にて

2013年10月14日(月)16時頃に撮影

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11月29日(金)11時頃に撮影

12月13日(金)10時頃に撮影
満開には至りません
12月14日(土)10時頃に撮影
寒波のためしおれてきました
晩秋における石楠花の狂い咲き(その2)
茨城県ひたちなか市の自宅の庭にて

2013年11月~12月

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付録 8   熱気球

    2013年11月22日(金)夕方に栃木県芳賀はが郡芳賀町をドライブしたときに、たまたま、熱気球がたくさん西の空に浮かんでいました。 検索すると、「 とちぎ熱気球インターナショナルチャンピオンシップ」のようです。

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夕空に浮かぶたくさんの熱気球
栃木県芳賀郡芳賀町にて

2013年11月22日(金)夕方

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和装姿のトイレ案内板
笠間稲荷神社の休憩所にて

2014年1月13日(月)午後
付録 9   和服姿のトイレ案内板

    和服姿のちょっと珍しいトイレ案内板です。 2014年1月13日(月)午後に茨城県笠間市にある笠間稲荷いなり神社に初詣はつもうでに行ったときに、 休憩きゅうけい所で見つけました。さすが、神社。

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付録 10   明日への希望が湧く夕空

    2014年8月2日(土)夕方に茨城県ひたちなか市新光町を通りかかったときに、明日への希望につながるような、きれいな夕空が現れました。

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明日への希望が湧く夕空
茨城県ひたちなか市新光町にて

2014年8月2日(土)夕方

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付録 11   伐採林

    2015年6月18日(木)午後、茨城県大子だいご町の広域農道アップルラインを通ったときに、山全体が伐採された風景が見られました。

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伐採林
茨城県大子町の広域農道アップルラインにて

2015年6月18日(木)午後


付録 12   幻想的な海外のアート

    茨城県那珂市の「日本一ラーメン」というお店の奥のボックス席の壁に、下の写真に示すような大変幻想的なアートが飾られています。海外のアートです。日本人の感覚では到底生まれないような作品で、いくら見ても飽きが来ず、「どこかで見たような景色だなあ」という、ある種の懐かしさを抱いて見入ってしまいます。そこに描かれてある非現実的自然に入り込んで、その幻想的な自然を体験したくなります。作者は、カリフォルニア生まれでハワイ育ちの Christian Riese Lassenその2) のようです。     残念ながら、下の写真には室内の電燈や外の光が反射して写り込んでいますので、作品がはっきりと写されていません。幸い、角度を変えて2つの写真を撮ってあり、左が生の写真の一つで、右がもう一つの写真を切り取って、左の写真の光っている個所に植え付けて、光っている所を出来るだけ無くするようにしたものです。

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生の写真
外部光の反射を一部修正
幻想的な海外のアート Christian Riese Lassen 作
茨城県那珂市の「日本一ラーメン」店にて

2018年2月撮影

    妻の曉子さんも若い時に Christian Riese Lassen の作品のコピーを買って持っていました。 年月が経ってかなり傷んでいますが、次の画像です。

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曉子さんが持っていた Christian Riese Lassen の作品
2019年7月撮影
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付録 13   鉄道線路を走行できるトラック

    2019年10月16日(水)に福島県東白川郡鮫川村の道の駅「手まめ館」に昼食に行く途中の茨城県常陸太田市里美地区の349号線を車で走っていると、僕の前にはトラックがいます。よく見ると、野田ナンバーの鉄道線路でも走ることのできる鉄道車両も備えた珍しいトラックであることが近づいたときに分かりました。助手席の暁子様に撮ってもらいました。

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鉄道線路を走行できるトラック
茨城県常陸太田市里美地区の
国道349号線にて

2019年10月16日(水)12時頃

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余情   きれいなクラシック音楽など

    第2次世界大戦の戦後以来、1960年代まで、NHK第一、第二放送、さらには民間放送でも、ポピュラーできれいなクラシック音楽が相当数放送されていました。 その後、NHK・FM放送に移行しましたが、次第にポピュラーできれいなクラシック音楽を聞くことがほとんどといっていい位なくなりました。 すなわち、現在はクラシック不毛の時代になっています。私の感じでは、放送からクラシック音楽が流れなくなった頃から、 いじめ問題等の青少年の暗い出来事が急に多くなってきたように思います。 青少年の情操じょうそうからびたからだ、と思われます。
    そこで、私が好きだったクラシック音楽を集めてみました。 そうして、現在の難しい世の中で、思い立ったときに、心にうるおいいを与えるかてといたします。

(1) メンデルスゾーン作曲 春の歌その2) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7) (その8) (その9) (その10
(2) オッフェンバック作曲 ホフマンの舟歌その2) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7
(3) ビゼー作曲「アルルの女」より メヌエットその2
(4) ドリーブ作曲「コッペリア」より ワルツその2)。 ついでに、時間があれば、コッペリア全曲
(5) ポンキエッリ作曲「ラ・ジョコンダ」より 時のおどその2
(6) シューベルト作曲 ます、 (同 ピアノ五重奏曲 第4楽章
(7) モーツァルト作曲 歌劇「フィガロの結婚」より 恋とはどんなものかしらその2) (その3
(8) ドイツ民謡 Alle Voegel sind schon da
(9)  ヴェルディ作曲「椿姫つばきひめ」より 第一幕の前奏曲その2
(10) ヴェルディ作曲「椿姫」より 乾杯かんぱいの歌その2
(11) ヴェルディ作曲「椿姫」より ああ そはかの人か~花から花へその2) (その3
(12) ヴェルディ作曲「リゴレット」より 女心の歌
(13) グリーグ作曲「ペールギュント」より ソルヴェイグの歌その2
(14) チャイコフスキー作曲 くるみ割り人形 序曲
(15) チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」より 葦笛あしぶえの踊りその2
(16) チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」より 金平糖こんぺいとうの踊り
(17) チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」より 花のワルツその2) (その3
(18) ビゼー作曲「カルメン」より ハバネラ
(19) ドビッシー作曲 月の光その2
(20) ドビッシー作曲 牧神の午後への前奏曲
(21) ボロディン作曲「イーゴリー公」より 韃靼だったん人の踊り
(22) シューベルト作曲 野ばら
(23) ヨハン・シュトラウス作曲 美しく青きドナウその2) (その3
(24) ヨハン・シュトラウス作曲 南国のバラ
(25) ヨハン・シュトラウス2世作曲 春の声
(26) ヨハン・シュトラウス2世作曲 皇帝円舞曲その2
(27) ヨハン・シュトラウス2世作曲 ウィーンの森の物語その2) (その3
(28) 武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲 
(29) 吉丸一昌作詞、中田章作曲 早春賦その2
(30) マスネ作曲 タイスの瞑想曲その2
(31) ハイケンスのセレナーデその2) (その3
(32) ハイケンス作曲 ドナウ河のさざ波
(33) シベリウス作曲 悲しきワルツ(旧題名 死の円舞曲その2
(34) ハイドンのセレナーデその2
(35) ボッケリーニのメヌエット
(36) バダジェフスカ作曲 乙女の祈り
(37) ドビュッシー作曲 アラベスク 第1番その2
(38) チャイコフスキー作曲「眠れる森の美女」より いつか夢でその2
(39) ショパン作曲 別れの曲 エチュード
(40) ワルトトイフェル作曲 スケーターズ・ワルツ
(41) マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」より 間奏曲その2
(42) ショパン作曲 夜想曲(ノクターン)第2番その2)。
(43) レハール作曲 喜歌劇 「メリー・ウィドウ」より 唇は黙してもその2) (その3
(44) レハール作曲 喜歌劇 「メリー・ウィドウ」より ヴィリアの歌その2
(45) プッチーニ作曲 歌劇「ジャンニ・スキッキ」より 私のお父さん
(46) ドビュッシー作曲 Reverie 幻想曲
(47) クライスラー作曲 愛の喜び
(48) クライスラー作曲 愛の悲しみ
(49) クライスラー作曲 美しきロスマリン
(50) イェッセル作曲 おもちゃの兵隊の行進その2
(51) マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章
(52) ヨハン・シュトラウス2世作曲 アンネンポルカその2
(53) ルイ13世 作曲 アマリリスその2) (その3
(54) ドヴォルザーク作曲 ユーモレスク
(55) グノー作曲 「ファウスト」から バレエ音楽
(56) ドヴォルザーク作曲 わが母の教えたまいし歌その2
(57) シューベルト作曲 楽興の時 第3番
(58) チャイコフスキー作曲「四季」より 舟歌
(59) ワルトトイフェル作曲 女学生
(60) ドビュッシー作曲 その2
(61) ブラームス作曲 ワルツ第15番
(62) マリー作曲 金婚式
(63) メンデルスゾーン作曲 歌の翼に
(64) ベルリオーズ作曲 幻想交響曲 第2楽章その2
(65) アルベニス作曲 組曲スペイン165-2 タンゴその2) (その3) (その4
(66) ボロディン作曲 ノックターン(夜想曲)その2
(67) ウェーバー作曲 舞踏への勧誘
(68) ショパン作曲 華麗なる円舞曲その2
(69)  シューベルトのセレナーデ
(70) チャイコフスキー作曲 白鳥の湖 第1幕 ワルツ
(71) チャイコフスキー作曲 白鳥の湖 第2幕よりオデットのヴァリアシオ
(72) チャイコフスキー作曲 白鳥の湖 第2幕から 4羽の白鳥たちの踊り
(73) チャイコフスキー作曲 白鳥の湖 情景
(74) ラスマニノフ作曲 交響曲第2番 第3楽章
(75) モーツァルト作曲 春への憧れ
(76) ワーグナー作曲 ジークフリート牧歌その2
(77) プッチーニ作曲 「トスカ」より 歌に生き恋に生き、または、歌に生き愛に生き
(78) トーマ作曲 「ミニヨン」より 君よ知るや南の国
(79) ハイドンのセレナーデ
(80) スッペ作曲 喜歌劇「ボッカチオ」より ベアトリ姐ちゃん
(81) アルヴェーン作曲 スウェーデン狂詩曲その2
(82) ヨハン・シュトラウス2世作曲 ピチカート・ポルカ
(83) ドルドラ作曲 思い出
(84) グノー作曲 歌劇「ファウスト」より ワルツ
(85) リスト作曲 愛の夢
(86) モーツァルト作曲 歌劇「フィガロの結婚序曲
(87) ヨハン・シュトラウス2世作曲 喜歌劇「蝙蝠こうもり序曲
(88) ヨーゼフ・シュトラウス作曲 我が人生は愛と喜び
(89) ラヴェル作曲 亡き王女のためのパヴァーヌ
(90) ヴェルディ作曲 歌劇「アイーダ」より 凱旋行進曲
(91) ヨハン・シュトラウス2世作曲 芸術家の生活
(92) ヨハン・シュトラウス1世作曲 ラデツキー行進曲
(93) ベートーヴェン作曲 ヴァイオリンソナタ第5番「」 第1楽章
(94) リスト作曲 カンパネラ
(95) ショパン作曲 幻想即興曲
(96) ヴォルフ=フェラーリ作曲 聖母の宝石(マドンナの宝石) 間奏曲
(97) モーツァルト作曲 ? 子守歌
(98) ブラームス作曲 子守歌
(98) シューベルト作曲 子守歌
(99) ヒューゴ・アルヴェーン作曲 スペイン狂詩曲その2
(100) シューマン作曲 トロイメライ
(101) ベートーヴェン作曲 エリーゼのために
(102) ウェーバー作曲 歌劇「魔弾の射手」より 狩人の合唱
(102) メンデルスゾーン作曲 結婚行進曲
(103) ワーグナー作曲 歌劇「ローエングリン」より 婚礼の合唱
(104) サラサーテ作曲 チゴイネルワイゼンその2
(105) ヨハン・シュランメル作曲 ウィーンはいつもウィーン
(106) ロッシーニ作曲 歌劇「セビリアの理髪師序曲
(107) グルック作曲 精霊の踊り (曲相その1)その2
(108) グルック作曲 精霊の踊り (曲相その2)その2
(106) ブラームス作曲 ワルツ第15番
(107) リムスキー=コルサコフ作曲 歌劇「サトコ」より インドの歌その2) (その3
(108) レスピーギ作曲 「リュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲」より イタリアーナその2) (その3
(109) ベルリオーズ作曲 劇的物語「ファウストの劫罰」より 妖精の踊り 鬼火のメヌエットその2) (その3
(110) ヨハン・シュトラウス2世作曲 ポルカ「観光列車
(111) ベートーヴェン作曲 メヌエット ト長調
(112) シューベルト作曲 交響曲第8番「未完成」 第1楽章
(113) ベートーヴェン作曲 ロマンス第2番
(115) ラフマニノフ作曲 ヴォカリーズ
(116) 1964年に仙台市に下宿していたときに、下宿の夕食時の19時前、東北放送の天気予報でバックグラウンド・ミュージックに流れていた曲が日替わりで2曲あって、1つはドリーゴのセレナーデ「以下のセミクラシック曲の(1)番参照」でしたが、もう1曲の題名が分からず、私が musescore (マイクロソフト社が無料で提供している楽譜演奏ソフト)を使って編集しました。それがこちら_ 短い曲。 なお、この曲を聞くには、Microsoft 社が提供している無料のソフト 'musescore.org' をインストールする必要があります。 2019年9月に NHK FM 放送の14時から始まる「ミュージック カフェ」という番組で聞いたベルリオーズ作曲「妖精の踊り」に似ています。これのアレンジなのかな? 上記、クラシック音楽の(109)番を参照。

    そのほか、セミクラシックとも言えるきれいな曲をいくつか上げてみます。バックグラウンドミュージックとしても使われています。
(1) ドリーゴのセレナーデその2) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7) (その8
(2) グノーのセレナーデその2) (その3
(3) トセリ作曲「嘆きのセレナーデ
(4) カプリ島その2
(5) REGINELLA CAMPAGNOLA(村の娘その2) (その3) (その4
(6) ランゲ作曲「花の歌
(7) 1952年イギリス映画「赤い風車」のテーマ曲 『ムーランルージュの歌』(パーシーフェイス〔Percy Faith〕楽団)その2) (その3) (その4) (その5
(8) 1959年アメリカ映画「避暑地の出来事」のテーマ曲『夏の日の恋』(パーシーフェイス楽団)その2
(9) 1957年アメリカ映画「昼下がりのジョージ」のテーの曲『魅惑のワルツ (Fascination) 』(パーシーフェイス楽団) (その2) (その3
(10) 1949年初演のブロードウェイミュージカル「南太平洋」より 『魅惑のよい』(マントヴァー二 オーケストラ)その2
(11) Francis Lai 映画「白い恋人たち」13 Jours en Franceその2
(12)  ウィオレッタにささげし歌(アルフレッド・ハウゼ楽団)
(13) アンデス民謡「花祭りその2) (その3
(14) ソラメンテ・ウナ・ベスその2
(15) すみれの花咲く頃その2(宝塚歌劇)) (その3
(16) 春の唄その2
(17) ルロイ・アンダーソン作曲「トランペット吹きの子守唄その2) (その3
(18) ジェームス・ライマン・モロイ作曲「なつかしき愛の歌
(19) DI CHIARA VINCENZO 作曲「LA SPAGNOLA
(20) ダニエル・パーチェ作詞、マリオ・パンゼリ、ロベルト・リヴラーギ作曲「愛の花咲くとき A Man Without Love」その2
(21) アリヴェデルチ・ローマその2
(22) チリビリビンその2) (その3) (その4
(23) 愛のオルゴールその2
(24) そよ風と私その2
(25) ポンセ作曲「Estrellita(エストレリータ、小さな星)」その2) (その3) (その4
(26) シェルト・リンドその2) (その3) 。
(27) 真珠貝の歌
(28) 真珠採りのタンゴ
(29) 星空のブルース
(30) シャルメーヌ(マントヴァー二 オーケストラ)
(31) 恋をして
(32) ラスト・ワルツ
(33) 天使のセレナーデ
(34) ビア樽ポルカ(Rosamunde Polka)(Böhmische Polka)その2) (その3) (その4
(35) 魅惑のワルツ
(36) 映画「80日間世界一周」のテーマ曲その2) (その3
(37) ポーランド民謡「森へ行きましょう(Szla dzieweczka do laseczka)」 (その2) (その3) (その4) (その5
(38) ポーランド民謡「クラリネットポルカ
(39) ゆかいに歩けば(Der frohliche Wanderer)その2) (その3) (その4) (その5
(40) スイス民謡「ホルディリディア(Mein Vater ist ein Appenzeller)」その2) (その3
(41) チェコ民謡「おお牧場はみどり(Horela lipka horela)」その2) (その3
(42) シャンソン「ラ・ヴィ・アン・ローズ
(43) 森の水車その2
(44) 朝はどこから
(45) 奥さまお手をどうぞその2
(46) 「Save the last dance for me(ラストダンスは私に)」その2
(47) 山の人気者その2) (その3) (その4
(48) ナポリ民謡「オーソレミオその2
(49) ナポリ民謡「帰れソレントへ
(50) イタリア大衆歌謡「フニクリフニクラ
(51) パット・ブーン歌「砂に書いたラブ・レター」1957年頃
(52) セレソ・ローサ
(53) マンボ NO.5その2
(54) 口笛吹と犬
(55) つれない心(カタリ・カタリ
(56) 渚のアデリーヌ
(57) ジャンバラヤその2
(58) La Paloma(ラ・パロマその2) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7
(59) シェルト・リンド
(60) Shall We Danceその2
(61) The Sound of Music Opening Scene from The Sound of Music
(62) Do Re Mi From The Sound of Music (With Lyrics)その2
(63) I Could Have Danced All Night from My Fair Lady (踊り明かそう
(64) エルガー作曲「愛の挨拶あいさつ
(65) トスティのセレナータ
(66) 美しき天然
(67) 夏の思い出その2
(68) 花の街その2) (その3
(69) ナポリ民謡「海に来たれ
(70) 会議は踊る
(71) ライムライト
(72) 白銀は招くよ
(73) メロンの気持ちその2
(74) 第三の男
(75) From my first moment
(76) オリーブの首飾り
(77) シェーンより「遥かなる山並み
(78) La Mer
(79) 珊瑚礁の彼方に
(80) ブルーハワイ
(81) ハワイの結婚の歌
(82) ティコ・ティコその2
(83) なつかしき愛の歌
(84) ある日どこかで」より
(85) Heigh Ho(白雪姫と7人の小人)(白雪姫と7人の小人)
(86) 虹の彼方に
(87) ビビディ・バビディ・ブー(シンデレラ)
(88) イッツ・ア・スモール・ワールド(ディズニーランド)その2) (その3) (その4) (その5
(89) Blue Canary
(90) 映画「南太平洋」から バリハイ(Bali Ha'i)その2
(91) 映画「南太平洋」から Happy Talk
(92) 映画「明日に向って撃て
(93) 映画「エデンの東
(94) 浪路はるかに
(95) CHA-CHA-CHA
(96) トランペット吹きの休日
(97) 忘れられし夢
(98) ブルー・タンゴ
(99) バラのタンゴその2) (その3
(100) 小さな喫茶店その2
(101) ジェラシー
(102) 僕の伯父さん (Mon Oncle)その2

    日本がバブル期(1980年から1990年)の直前に一世を風靡ふうびした ABBA (スウェーデンの男女4人のグループ) の曲。
(1) Dancing Queenその2
(2) Waterloo
(3) Thank You For The Music
(4) ABBA Gold: Greatest Hits Full Album

    1957年(昭和32年)以降の青春の心に残るポップスです。(これは、このページの前巻である不思議なこと(上)のあちこちに紹介したポップスも採録しています。)
(1) ケ・セラ・セラその2
(2) 雨に歩けばその2
(3) バラが咲いた
(4) あ~あぁ やんなっちゃった
(5) スーダラ節
(6) 上を向いて歩こうその2) (その3)
(7) いつでも夢を
(8) Green Green
(9) Be My Baby
(10) I Can't Stop Loving You愛さずにはいられないその2
(11) Vacation
(12) Like I Do
(13) 可愛いベイビーPretty little Baby
(14) Summer Holiday
(15) ロコモーション
(16) シェリー
(17) Kissing On The Phone
(18) 帰って来たヨッパライ
(19) 走れコウタロー
(20) 世界は二人のために
(21) 恋のバカンス
(22) 情熱の花
(23) 悲しき雨音その2
(24) メロンの気持ち
(25) 悲しき片想いその2) (その3
(26) 悲しき天使
(27) Blowin in The Windその2
(28) 花はどこへ行った
(29) 思い出のグリーングラス
(30) 瀬戸の花嫁
(31) Yellow Submarine
(32) いい湯だな
(33) そよ風に乗って
(34) 砂に消えた涙その2
(35) アイドルを探せその2
(36) ひみつのアッ子ちゃん
(37) 白いブランコ
(38) 天使の誘惑その2) (その3
(39) 雲にのりたい
(40) 女ひとりその2
(41) 白い色は恋人の色その2
(42) あなたの心に
(43) 禁じられた恋その2
(44) この広い野原いっぱいその2
(45) 夜明けのスキャット
(46) 風がはこぶもの
(47) パパと踊ろうよ
(48) そよ風にのって
(49) 恋はみずいろその2
(50) 夏の日の恋その2
(51) 白い恋人たち
(52) 雲に乗りたい
(53) 水色の恋
(54) 真夜中のギター
(55) 若者たちその2
(56) さらば恋人
(57) 
(58) あの素晴らしい愛をもう一度
(59) 誰もいない海
(60) 空よ
(61) 希望
(62) 虹と雪のバラード
(63) 恋人もいないのに
(64) Beautiful Sunday
(65) Top of the World
(66) 木綿のハンカチーフ
(67) てんとう虫のサンバ
(68) 若草の髪かざり
(69) 結婚するって本当ですか
(70) 野に咲く花のように
(71) 宗谷岬
(72) 恋にメリーゴランド
(73) Oh! クッキーフェイス
(74) 夢先案内人
(75) 青葉城恋唄
(76) ひなげしの花
(77) 思い出の渚
(78) 優しい悪魔
(79) 黄昏たそがれのビギン
(80) 時をかける少女
(81) 赤いスイートピー
(82) 白いパラソル
(83) 青い珊瑚礁
(84) 風立ちぬ
(85) 桃色吐息といきその2
(86) 俺ら東京さ行ぐだ
(87) 熱き心に
(88) 麦畑
(89) 夢をあきらめないで
(90) クリスマス・イブ
(91) My Revolution
(92) おどるポンポコリン
(93) 君は天然色
(94) U.S.A

    少女時代に妖精の存在を信じておられたシンガーソングライター・池田綾子あやこさんの作品
(1)  大切な君へ
(2)  ANNIVERSARY
(3)  空の欠片
(4)  こころたび
(5) 
(6)  流星

    戦前も含め、特に、戦中および戦後(1940年~1960年)にラジオからよく流れていた希望と憧れに満ちた歌謡曲および童謡
(1) 東京節(パイのパイのパイ)
(2) 祇園ぎおん小唄その2
(3) 旅の夜風
(4) ブンガワンソロ
(5) 雨降りお月さん
(6) 浪花なにわ小唄その2
(7) 十三夜
(8) 夜来香イェライシャン
(9) 丘を越えて
(10) 南から南から
(11) リンゴの唄
(12) 朝はどこから
(13) みかんの花咲く丘
(14) 鐘の鳴る丘
(15) 山小屋の灯
(16) 銀座カンカン娘
(17) 長崎の鐘
(18) 青い山脈
(19) 東京キッド
(20) 森の水車その2
(21) あこがれの郵便馬車
(22) 素敵なランデブー
(23) 高原列車は行く
(24) 山の人気者
(25) アルプスの牧場
(26) 東京シューシャインボーイ
(27) 憧れのハワイ航路
(28) 僕は特急の機関士で
(29) 田舎のバス
(30) 毒消しゃいらんかね
(31) ガード下の靴磨き
(32) お富さん

    学校唱歌
(1)  故郷の廃家はいかその2
(2)  旅愁りょしゅうその2) (その3
(3)  春風その2
(4)  故郷
(5)  埴生はにゅうの宿
(6)  故郷を離るる歌
(7)  冬景色
(8)  朧月夜おぼろづきよ
(9)  花のまわりでその2
(10)  夏は来ぬ
(11) 
(12)  われは海の子
(13)  羽衣はごろも

    戦後のラジオ番組のテーマ曲
(1)  とんがり帽子(NHK連続放送劇「緑の丘」主題歌)
(2)  さくらんぼ大将(NHK連続放送劇)
(3)  さくらんぼ道中(NHK連続放送劇「さくらんぼ大将」より)
(4)  笛吹童子ふえふきどうじ(NHK新諸国物語)その2
(5)  紅孔雀べにくじゃく(NHK新諸国物語)
(6) NHK第一放送・連続児童放送劇「なかよし歌日記?」主題歌 「チリリン、チリリンとベルが鳴る、チリリン、チリリンとベルが鳴る、なかよしこよし、ぺダルを踏んで、ミコちゃん、はいはいはい、ロクちゃん、はいはいはい、みんなそろって走ってく
(7)  ピーコポンの歌その2
(8) NHK第一放送・連続放送劇「南京豆物語」主題歌 「カラカラカラカラ豆の中、南京豆を飛び出して、世界の国をひとまたぎ、ハテナ、ハテナ、ハテナ、おかしいな、そんなことがらあるかしら、それは愉快な南東西(なんとんしー)の南京豆物語
(9)  きょうの料理(NHK 総合テレビ)テーマ曲

    戦後のラジオのコマーシャルソング
(1)  森永製菓 CM
(2)  サンスター CMその2) (その3

    懐かしい子供向け映画
(1-1)  ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ふしぎの国のアリス(Alice In Wonderland) Part1
(1-2)  ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ふしぎの国のアリス(Alice In Wonderland) Part2
(2-1)  オズの魔法使い(the wizard of oz, 日本語字幕) part1
(2-2)  オズの魔法使い(the wizard of oz, 日本語字幕) part2

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updated: 2008.9.18, edited by N. Yamamoto
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